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2025年08月26日(火) 19時10分 bysoo_cyan
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臨済宗東福寺派
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臨済宗東福寺派本山東福寺塔頭
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かいぞういん
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社会福祉法人「洛東園」
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創建の詳細は不明。 海蔵院は虎関師錬の退隠所として有名である。天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所には、「東福寺塔頭なり。二老橋の北にあり、虎関師の住し所なり。磧礫集云、海蔵院には虎関自筆の元亨釈書あり。」とし、寛政11年(1799)に刊行された都林泉名所にも、「虎関和尚の住坊なり。和漢禅刹云、虎関和上、諱、師練、東山宝覚嗣ク、洛陽人、貞和二年七月廿四日寂ス、六十九歳。」とある。 虎関師錬は弘安元年(1278)藤原左金吾校尉の子として京で生まれている。8歳の弘安8年(1285)の時、臨済宗聖一派東山湛照に師事して参禅し、同10年(1287)比叡山にて受戒している。正応4年(1291年)師を失った後は南禅寺の規庵祖円や円覚寺の桃渓徳悟らについて修行する。この間、菅原在輔から中国南北朝時代の詩文集である文選を、六条有房から易学を学ぶなど自らの研鑚に努め、広汎な知識を得ていた。その後、円覚寺の無為昭元や建長寺の約翁徳倹の会下に入る一方、仁和寺・醍醐寺で密教を学んでいる。 徳治3年(1307)鎌倉に下向した師錬は、建長寺に一山一寧を訪れている。この時、一寧に本朝の名僧の事績について尋ねられたとされている。師錬は満足に応えられなかったことを悔やみ、元亨2年(1322)に日本で最初の仏教史書である元亨釈書を著している。仏教初伝以来、鎌倉後期まで700余年に及ぶ、僧の伝記や仏教史を30巻に記している。師錬の広汎な知識は、この元亨釈書とともに五山文学の発展に大きく寄与した。 延元3年(1338)東福寺住持を退き、翌4年(1339)南禅寺住持となるが、興国2年(1341)これを辞して東福寺海蔵院に退き、海蔵和尚とも呼ばれる。同3年(1342)後村上天皇から国師号を賜る。同7年(1346)近衛基嗣の寄進によって楞伽寺を興したが、海蔵院にて寂す。享年69。 また海蔵院は近衛家の香華院となり、近衛前久(1536~1612)や近衛信尹(1565~1614)の墓もあった。しかし後水尾天皇第二皇女昭子内親王が近衛尚嗣の室となり、薨後海蔵院に葬られたため、墓は宮内庁の管理するところとなり、近衛家一族の墓は大徳寺へ移された。大徳寺総見院の西側に石積みの壁に門を穿った近衛家廟がある。
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薬師如来
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聖観音菩薩
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1331~1332年
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東福寺15世・虎関師錬国師
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重要文化財 ・絹本著色 虎関和尚像 ・紙本墨書 楞伽禅寺私記
