らいごういん
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楽しみ方来迎院のお参りの記録(1回目)
投稿日:2025年08月27日(水) 11時11分17秒
参拝:2025年8月吉日
泉涌寺の塔頭です。
禁裏御菩提所泉涌寺別当、御寺(みてら)別当来迎院とも称します。
806年に空海が唐で感得した三宝荒神像を安置して来迎院を開創したとされます。
それから約400年後の1218年、泉涌寺の長老であった月翁智鏡律師が、藤原信房の帰依を受けて諸堂を整備し、泉涌寺の子院となりましたが、1468年の応仁の乱の兵火により伽藍が焼失し、荒廃してしまいました。
その後1574年、中興の祖 舜甫明韶が織田信長の援助により再興、1597年には前田利家が諸堂の再建を行い、徳川家からも援助を得て経済的な基盤も整い、ようやく復興を果たしました。
1701年3月14日、赤穂藩の大名であった浅野長矩が吉良上野介に斬り付ける事件が発生しました。
浅野長矩は切腹、赤穂浅野家はお家断絶となりました。
浅野の家臣である大石良雄は赤穂を退去した後、外戚にあたる当時の泉涌寺長老、兼、来迎院住職であった卓巖和尚を頼り、来迎院の檀家となって寺請証文を受け山科に居を構え、多くの時間を来迎院で過ごしたと伝わります。
禁裏御菩提所泉涌寺別当、御寺(みてら)別当来迎院とも称します。
806年に空海が唐で感得した三宝荒神像を安置して来迎院を開創したとされます。
それから約400年後の1218年、泉涌寺の長老であった月翁智鏡律師が、藤原信房の帰依を受けて諸堂を整備し、泉涌寺の子院となりましたが、1468年の応仁の乱の兵火により伽藍が焼失し、荒廃してしまいました。
その後1574年、中興の祖 舜甫明韶が織田信長の援助により再興、1597年には前田利家が諸堂の再建を行い、徳川家からも援助を得て経済的な基盤も整い、ようやく復興を果たしました。
1701年3月14日、赤穂藩の大名であった浅野長矩が吉良上野介に斬り付ける事件が発生しました。
浅野長矩は切腹、赤穂浅野家はお家断絶となりました。
浅野の家臣である大石良雄は赤穂を退去した後、外戚にあたる当時の泉涌寺長老、兼、来迎院住職であった卓巖和尚を頼り、来迎院の檀家となって寺請証文を受け山科に居を構え、多くの時間を来迎院で過ごしたと伝わります。
すてき
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