ずいせんじ|浄土宗西山禅林寺派|慈舟山
瑞泉寺の編集履歴
ご由緒
桃山時代ここは三条河原の中洲であった。慶長16年(1611年)、京都の豪商角倉了以によって高瀬川を開く工事中が行われているときに、偶然発見された石に秀次悪逆塚と刻まれていた。それは文禄4年(1595年)自害させられた豊臣秀次の石塔だった。実は高瀬川の開削責任者だった角倉了以の実弟吉田宗恂(医師)は、秀次に仕えていたことがあり、彼は秀次事件への連座は免れたが、前年の慶長15年(1610年)に死去していた。
慶長16年は宗恂の一周忌にもあたることから、了以と立空桂叔(浄土宗西山派僧侶)は、秀次の菩提を弔うために江戸幕府の許可を得て堂を営むこととし、秀次の戒名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」から寺号を取って、瑞泉寺を建立した。以後、瑞泉寺は400年間にわたり秀次事件により死罪となった秀次と連座した一族・家臣の菩提を供養している。
編集前:桃山時代ここは三条河原の中洲であった。慶長16年(1611年)、京都の豪商角倉了以によって高瀬川を開く工事中が行われているときに、偶然発見された石に秀次悪逆塚と刻まれていた。それは文禄4年(1595年)自害させられた豊臣秀次の石塔だった。実は高瀬川の開削責任者だった角倉了以の実弟吉田宗恂(医師)は、秀次に仕えていたことがあり、彼は秀次事件への連座は免れたが、前年の慶長15年(1610年)に死去していた。
慶長16年は宗恂の一周忌にもあたることから、了以と立空桂叔(浄土宗西山派僧侶)は、秀次の菩提を弔うために江戸幕府の許可を得て堂を営むこととし、秀次の戒名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」から寺号を取って、瑞泉寺を建立した。以後、瑞泉寺は400年間にわたり秀次事件により死罪となった秀次と連座した一族・家臣の菩提を供養している。
見所
<h3>豊臣秀次一族のお墓</h3>
豊臣秀次は、秀吉の養子となり関白の位を継いだが文禄四年七月、高野山において自害。八月に秀次の幼児や妻妾たち三十九人が三条大橋の河原で死刑に処され、遺骸は石塔を建てられ埋葬された。角倉了以により墓石が発掘され菩提を弔うために建立されたお寺。境内に秀次の墓や幼児・妻妾や殉死した家臣を弔う四十九柱の五輪塔がある。
編集前:<h3>豊臣秀次一族のお墓</h3>
豊臣秀次は、秀吉の養子となり関白の位を継いだが文禄四年七月、高野山において自害。八月に秀次の幼児や妻妾たち三十九人が三条大橋の河原で死刑に処され、遺骸は石塔を建てられ埋葬された。角倉了以により墓石が発掘され菩提を弔うために建立されたお寺。境内に秀次の墓や幼児・妻妾や殉死した家臣を弔う四十九柱の五輪塔がある。
アクセス
・京阪「三条」駅より徒歩5分
・地下鉄「三条京阪」駅より徒歩8分
・阪急「京都河原町」駅より徒歩10分
編集前:・京阪「三条」駅より徒歩5分
・地下鉄「三条京阪」駅より徒歩8分
・阪急「京都河原町」駅より徒歩10分
Wikipedia
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