むなかたじんじゃ
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宗像神社ではいただけません
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宗像神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2022年01月03日(月)
参拝:2020年12月吉日
宗像神社(むなかた~)は、京都府京都市上京区京都御苑内にある神社。式外社(国史見在社)で、旧社格は府社。主祭神は宗像三女神(多紀理比売命、多岐都比売命、市寸島比売命)で、倉稲魂神と天岩戸開神を配祀する。
社伝によると、平安遷都翌年の795年、藤原冬嗣が桓武天皇の勅命により皇居鎮護の神として筑前宗像神を勧請し、自邸である東京第(東京一条第)に西南隅に祀ったのが始まり。東京第は850年に清和天皇が誕生した場所で、同天皇の産神、産土神として崇拝され、『日本三代実録』に神階奉授、昇叙の記載がある(同じく邸内社であった天石戸開神についても神階奉授の記載がある)。藤原時平が倉稲魂神を合祀、花山院家を開いた藤原家忠が天岩戸開神をも合祀した。戦国時代に応仁の乱の兵火に罹り焼亡したが、その後再建された。明治時代に入り御苑内鎮座となり、近代社格制度の下、府社に列格した。
当社は、京都市営地下鉄烏丸線・丸太町駅の北東、道のり200mほどの京都御苑南西部にある。御苑南西角近くにある間之町口から御苑に入り、北向きに進んですぐの場所にある。南向きに立つ大きめの鳥居の奥が境内になっていて、そこそこの広さがあり、境内社がいくつかあって、その最奥に社殿がある。
今回は、京都御所に観光に来たが、たまたま見掛けたので参拝することに。参拝時は平日の午前中早めの時間、参拝者は自分以外にはいなかった。
社伝によると、平安遷都翌年の795年、藤原冬嗣が桓武天皇の勅命により皇居鎮護の神として筑前宗像神を勧請し、自邸である東京第(東京一条第)に西南隅に祀ったのが始まり。東京第は850年に清和天皇が誕生した場所で、同天皇の産神、産土神として崇拝され、『日本三代実録』に神階奉授、昇叙の記載がある(同じく邸内社であった天石戸開神についても神階奉授の記載がある)。藤原時平が倉稲魂神を合祀、花山院家を開いた藤原家忠が天岩戸開神をも合祀した。戦国時代に応仁の乱の兵火に罹り焼亡したが、その後再建された。明治時代に入り御苑内鎮座となり、近代社格制度の下、府社に列格した。
当社は、京都市営地下鉄烏丸線・丸太町駅の北東、道のり200mほどの京都御苑南西部にある。御苑南西角近くにある間之町口から御苑に入り、北向きに進んですぐの場所にある。南向きに立つ大きめの鳥居の奥が境内になっていて、そこそこの広さがあり、境内社がいくつかあって、その最奥に社殿がある。
今回は、京都御所に観光に来たが、たまたま見掛けたので参拝することに。参拝時は平日の午前中早めの時間、参拝者は自分以外にはいなかった。
境内南端入口にある<鳥居>。
鳥居をくぐるとすぐ、右側に<社号標>、左側に<花山院邸跡>と書かれた石碑。
参道右手にある<花山稲荷神社>。関白藤原忠平の時に衣食住の守護神として伏見稲荷を勧請したとのこと。
社殿前には大きな屋根。たくさんの真っ赤な幟が立っている。
社殿前には大きな屋根。たくさんの真っ赤な幟が立っている。
参道左手にある<京都観光神社>。1968年に京都の観光業者が猿田彦大神を守護神として建立とのこと。
<京都観光神社>正面。こちらも花山稲荷神社同様、社殿前に屋根がある。
参道右側にある<手水舎>。
参道左側にある建物。相撲場ではないので絵馬殿かな?
参道右側にある建物。神楽殿のように見えるが、構造物が二重になっていて、古木の一部が飾ってある。
参道の突き当りにある<拝殿>。両側に透塀、奥に本殿。
拝殿の左側にある境内社群。左から順に<琴平神社>、<繁盛稲荷神社>、<少将井神社>。
こちらは<社務所>。御朱印は拝受できるらしいが、参拝時(平日9:30)は不在。残念...涙
当社の東側、京都御所南門(建礼門)に通じる通道。幅が超広い!(o^―^o)
京都御所の南側の壁。東西250m続いている(ちなみに南北は450m)。
こちらが<建礼門>。後ろに見えるのは<紫宸殿>の屋根。(^▽^)/
すてき
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惣一郎1269投稿
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