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圓徳院ではいただけません
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圓徳院のお参りの記録(1回目)
投稿日:2017年08月28日(月)
参拝:2007年10月吉日
秀吉の正妻、ねね様の終焉の地です。お子様を授かれなかった方でしたが、その人柄から多くの戦国武将の母親となった方です。
秀吉が素質がある子供を養子に迎え、それを育て上げた方。
いわゆる「子飼い」と今では言われていますが、加藤清正や福島正則等、賤ケ岳7本槍と呼ばれた武将が主にそうです。
それだけでなく、東西関係なく武将と交流があり、家康などもねねの晩年、ここまで訪ねて来たこともあります。
また、あの信長もねねには優しいくねぎらっていた事が残っている手紙でうかがえます。
前田利家と秀吉が親友であったことから、松との交流も深く、よくねねとはここで談笑していたと伝わっています。
そんな圓徳院には面白い長谷川等伯の襖絵が残されています。
桐紋などを散らした唐紙に絵は描かないのが通例ですが、この襖絵はすべて桐紋襖の上に描かれた非常に珍しいものです。
大徳寺の塔頭・三玄院の住職春屋宗園に襖絵制作を常々懇願しながら許されなかった等伯が、ある日、住職が2か月の旅に出かけて留守であることを知り、客殿に駆け上がり、腕を振るって水墨を乱点し、一気に描きあげてしまったものだと伝えられています。全36面の襖絵のうち、「夏の絵」「冬の絵」など32面がここにあります。
秀吉が素質がある子供を養子に迎え、それを育て上げた方。
いわゆる「子飼い」と今では言われていますが、加藤清正や福島正則等、賤ケ岳7本槍と呼ばれた武将が主にそうです。
それだけでなく、東西関係なく武将と交流があり、家康などもねねの晩年、ここまで訪ねて来たこともあります。
また、あの信長もねねには優しいくねぎらっていた事が残っている手紙でうかがえます。
前田利家と秀吉が親友であったことから、松との交流も深く、よくねねとはここで談笑していたと伝わっています。
そんな圓徳院には面白い長谷川等伯の襖絵が残されています。
桐紋などを散らした唐紙に絵は描かないのが通例ですが、この襖絵はすべて桐紋襖の上に描かれた非常に珍しいものです。
大徳寺の塔頭・三玄院の住職春屋宗園に襖絵制作を常々懇願しながら許されなかった等伯が、ある日、住職が2か月の旅に出かけて留守であることを知り、客殿に駆け上がり、腕を振るって水墨を乱点し、一気に描きあげてしまったものだと伝えられています。全36面の襖絵のうち、「夏の絵」「冬の絵」など32面がここにあります。
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