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2022年10月10日(月) 02時15分 byさくら
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600-8098
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豊臣秀吉の祐筆(ゆうひつ)を務め、その後、俳諧の祖と言われた松永貞(てい)徳(とく)が三(みつ)峯(みね)五社(ごしゃ)大神(おおかみ)を其邸内に勧請(かんじょう)する所であった。 当時、邸内に花咲の稱(しょう)があったことから、之を社名としたものである。 祭神は、宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)、素戔鳴尊(すさのおのみこと)、大市比売命(おおいちひめのみこと)、大己貴神(おおなむちのかみ)、猿田比古祭神(さるたひこさいしん)の五柱であり、神像五体が祀られていた(現在、京都国立博物館に保管保存されている)。 貞徳は、花咲(はなさき)翁(おきな)、五条(ごじょう)翁(おきな)と称し、霊夢(れいむ)によって「万代をみつの社の春秋は花さき実れ言の葉の道」の歌を奉じた。 霊験あらたかであり、後人代々の崇信(すうしん)広く、ここに神徳(しんとく)畏(かしこ)くも雲上に達し、正徳五年(1715年)霊元上皇皇女八十宮吉子(やそのみやよしこ)内親王が七代将軍徳川家継に降嫁される時、文久元年(1861年)孝明天皇皇妹和宮親子(かずのみやちかこ)内親王が一四代将軍徳川家茂に降嫁される時のいずれも、玉體安寧(ぎょくたいあんねい)のご祈祷が当神社に於いて斎行されている。 これらの事もあり信徒は益々多くなり、参詣人常に跡を絶たずとの事であった。 明治三十年(1897年)付近で大火があったが当社は焼失を免れ、以後「焼けずの稲荷」と言われるようになった。また、平成二三年(2011年)七月に近隣で不審火があった際にも塀が焦げただけで大事には至っていない。 明治四十年(一九〇七)長谷川武右衛門が、大阪毎日新聞京都支局長・京都日出新聞(現京都新聞)の主筆であった大道雷淵(和一)より譲り受け、武右衛門の妻於菟(おと)が社主として神明奉仕(しんめいほうし)を勤めて以来、長谷川家がお護りし、神事を続けて現在に至っている。 毎年、秋の祭礼を十一月第四日曜日に斎行している。
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御朱印は花咲稲荷神社から徒歩約2分のところにある老舗化粧筆屋の「藤井松華堂」で頂けます。 御朱印帳は販売されていますが、オリジナルではないです。
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毎年、秋の祭礼を十一月第四日曜日に斎行