そううんじ|臨済宗南禅寺派|常喜山
宗雲寺の編集履歴
ご由緒
開山千畝周竹和尚は、もと久美浜町小字多茂ノ木にあった常喜庵を永享四年(1423)京都近衛家の庇護により、現在の宮谷の地に移し宮谷山常喜寺を建立したと伝える。以後丹波天寧寺、安芸の仏通寺と共に禅宗愚中派の三本寺として栄えた。
天正十年(1582)松井康之が松倉城となり、父・正之、「清月宗雲禅定門」菩提のために叔父の南禅寺住持玄圃霊三和尚を中興開山として招き、天正十五年に再興された。尚、文禄元年(1592)の豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては、松井康之、与八郎父子と共に玄圃和尚も外交僧として従軍している。
当寺は、以上の由緒により開山当時や玄圃霊三に関係する資料など多くの歴史資料が保存されている。また庭園には蓬莱石を中心に多数の石組と心字池を配し、小規模ながら枯淡な造りとなっている。そのほかに長禄二年(1458)の銘の残る宝篋印塔や松井康之の父正之、母法壽をまつる肥後の墓などの文化財が伝えられている。
編集前:開山千畝周竹和尚は、もと久美浜町小字多茂ノ木にあった常喜庵を永享四年(1423)京都近衛家の庇護により、現在の宮谷の地に移し宮谷山常喜寺を建立したと伝える。以後丹波天寧寺、安芸の仏通寺と共に禅宗愚中派の三本寺として栄えた。
天正十年(1582)松井康之が松倉城となり、父・正之、「清月宗雲禅定門」菩提のために叔父の南禅寺住持玄圃霊三和尚を中興開山として招き、天正十五年に再興された。尚、文禄元年(1592)の豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては、松井康之、与八郎父子と共に玄圃和尚も外交僧として従軍している。
当寺は、以上の由緒により開山当時や玄圃霊三に関係する資料など多くの歴史資料が保存されている。また庭園には蓬莱石を中心に多数の石組と心字池を配し、小規模ながら枯淡な造りとなっている。そのほかに長禄二年(1458)の銘の残る宝篋印塔や松井康之の父正之、母法壽をまつる肥後の墓などの文化財が伝えられている。
見所
<h3>松井正之のお墓</h3>
久美浜城主・松井康之の父・松井正之のお墓がある。
編集前:<h3>松井正之のお墓</h3>
久美浜城主・松井康之の父・松井正之のお墓がある。
御朱印
あり
トイレ
駐車場横にあり
参拝所要時間
10分
参拝料
なし
文化財
宗雲寺庭園、絹本著色松井康之像、玄圃霊三関係資料(京都府指定文化財)
宝篋印塔、肥後の墓(京丹後市指定文化財)
編集前:宗雲寺庭園、絹本著色松井康之像、玄圃霊三関係資料(京都府指定文化財)
宝篋印塔、肥後の墓(京丹後市指定文化財)