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2024年02月27日(火) 20時04分 by高砂あさっぴー
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豪族片岡氏 応永十八年(1411年)片岡直弘が上野国片岡郷より土佐に移り、築城したと云われる。 元亀二年(1571年)城主片岡光綱のとき、長宗我部元親に降ったと云われる。 天正十三年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐で、片岡光綱は伊予の金子城主金子備後守元宅の援軍として伊予へ赴き、小早川隆景の軍勢と野々市原で戦って討死した。 また、片岡光綱の子光政は豊臣秀吉の九州征伐で、天正十四年(1586年)十二月豊後国戸次川の戦いで島津家久の軍勢と戦って討死した。 茶園堂と盆踊り 寺野城(黒岩郷)城主13代片岡茂光は、善政を施し城下に茶園堂を設けて、領民をして湯茶の接待をさせ、通行する旅人を慰労した。 そして、茶園堂に領民を集わせ、盛大な盆踊り会を催した。 14代片岡光綱は、片岡・法巌の2城を築き、片岡に移り住み、茶園堂も建てて接待を続けた。 永禄3(1560)年茂光の死後、その妻(長宗我部国親の妹)理春尼は、夫と兄の死を悼み、供養に明け暮れると共に村の幼童を集めて読み書きを教え、夫・茂光が遺愛の盆踊りを育成し、ここ茶園堂の庭、瑞応寺(黒岩郷)、天忠寺(黒岩郷)で毎年盛大な盆踊り会を催した。 片岡氏滅亡後も村人たちは絶やすことなく続けた。 後年、土佐藩執政野中兼山は、毎年供養の灯油3升を永代下賜として助成した。 これが現在も続けられている片岡茶園堂や瑞応寺の盆踊りである。
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なし
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戦国時代
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片岡光綱