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熊野新宮の編集履歴
2020年09月02日(水)
神奈川県 極楽寺駅

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mitch
2020年09月02日 18時41分

ご由緒

熊野新宮は鎌倉市極楽寺地区の鎮守。
1269年(文永6年)、
  極楽寺の忍性が信仰していた熊野本宮を勧請して創建したのが始まりとされ、
1298年(永仁6年)に火災で焼失したが、
1300年(正安2年)に再建されたと伝えられている。
 かつては、極楽寺の境内にあったが、
1335年(建武2年)に足利直義によって土地が寄進された。
 現在の社殿は1927年(昭和2年)に再建されたもの。
 1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊した八雲神社(極楽寺上町)と
諏訪神社(下手ヶ久保)が1928年(昭和3年)に合祀されている。
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境内掲示による極楽寺熊野新宮の由緒
もと新宮社と稱し、文永六年(七百餘年前)忍性菩薩の勧請と伝えられ、
鎌倉時代極楽寺全盛当時より熊野新宮と号し、同寺の鎮守として広く神地を有し、
厚く幕府の崇敬を受けて栄えた。
昭和三年同地域の八雲神社諏訪神社の両社を合祀し
亦後 極楽寺稲村ヶ崎全町の鎮守として年々盛んな祭典を執行し
殖産・興業の守護神として多くの信仰を集めている。(境内掲示より)
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神奈川県神社誌による極楽寺熊野新宮の由緒
『忍性菩薩行状略頌』に文永六年(一二四九)四月、新宮草創のことが見え、
又、永仁六年(一二九八)炎上、
正安二年(一三〇〇)二月二十三日に年月を経ずして新宮を勧請したとある。
建武二年(一三三五)二月には足利直義が百貫文の地を寄進している。
関東大震災により
昭和三年九月十日、村内の無格社・八雲神社と同・諏訪明神を合祀して
極楽寺区の氏神社として年と共に盛大な祭典を行っている。
現在の社殿は昭和二年の造営である。(神奈川県神社誌より)

編集前:熊野新宮は鎌倉市極楽寺地区の鎮守。
1269年(文永6年)、極楽寺の忍性が信仰していた熊野本宮を勧請して創建したのが始まりとされ、
1298年(永仁6年)に火災で焼失したが、
1300年(正安2年)に再建されたと伝えられている。
 かつては、極楽寺の境内にあったが、
1335年(建武2年)に足利直義によって土地が寄進された。
 現在の社殿は1927年(昭和2年)に再建されたもの。
 1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊した八雲神社(極楽寺上町)と
諏訪神社(下手ヶ久保)が1928年(昭和3年)に合祀されている。
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境内掲示による極楽寺熊野新宮の由緒
もと新宮社と稱し、文永六年(七百餘年前)忍性菩薩の勧請と伝えられ、
鎌倉時代極楽寺全盛当時より熊野新宮と号し、同寺の鎮守として広く神地を有し、
厚く幕府の崇敬を受けて栄えた。
昭和三年同地域の八雲神社諏訪神社の両社を合祀し
亦後 極楽寺稲村ヶ崎全町の鎮守として年々盛んな祭典を執行し
殖産・興業の守護神として多くの信仰を集めている。(境内掲示より)
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神奈川県神社誌による極楽寺熊野新宮の由緒
『忍性菩薩行状略頌』に文永六年(一二四九)四月、新宮草創のことが見え、
又、永仁六年(一二九八)炎上、
正安二年(一三〇〇)二月二十三日に年月を経ずして新宮を勧請したとある。
建武二年(一三三五)二月には足利直義が百貫文の地を寄進している。
関東大震災により昭和三年九月十日、村内の無格社・八雲神社と同・諏訪明神を合祀して
極楽寺区の氏神社として年と共に盛大な祭典を行っている。
現在の社殿は昭和二年の造営である。(神奈川県神社誌より)

アクセス

江ノ電「極楽寺」駅から徒歩で坂を登り桜橋を渡るとすぐに、電柱と郵便ポストに寄り掛かるような石造社号標が見えます。そこを右折して住宅街へ入り少し進むと鳥居が見えます。「極楽寺」駅下車から徒歩約4分。

編集前:江ノ電「極楽寺」駅から徒歩で坂を登り桜橋を渡るとすぐに、電柱と郵便ポストに寄り掛かるようにな石造社号標が見えます。そこを右折して住宅街へ入り少し進むと鳥居が見えます。「極楽寺」駅下車から徒歩約4分。

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