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ほっけどうあと(みなもとのよりとものはか・ほうじょうよしときのはか)

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)の編集履歴
2024年10月29日(火)
神奈川県 鎌倉駅

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高砂あさっぴー
2024年10月29日 22時22分

ご由緒

法華堂跡(源頼朝墓)は、神奈川県の南東部に位置し、大蔵幕府跡推定地北側の山稜部とその南側山裾部に所在する。昭和二年の山稜中腹部の塚と石塔を源頼朝墓、山裾部の廟所跡(現在の白旗神社境内)を法華堂跡として史跡指定した。その後、赤星直忠氏の研究によって、源頼朝墓は法華堂と同一で、中腹の平場が法華堂跡であることが明らかにされ、平成十二年に法華堂跡(源頼朝墓)に統合・名称変更された。指定範囲は東西約一一〇メートル、南北約七〇メートルである。
 二代執権、北条義時は元仁元年(一二二四)年六月十三日に死去し、十八日に葬儀が執り行われた。『吾妻鏡』十八日条に「故右大将家法華堂東の山上を以て墳墓となす」、八月八日条に「今日。故奥州禅室墳墓堂<新法花堂と号す。>供養なり」とあり、法華堂跡(源頼朝墓)の東隣の山稜平坦地が北条義時の法華堂跡と推定されていた。『吾妻鏡』をはじめとする文献史料には、幕府有力者が頼朝法華堂と義時法華堂を併せて参拝したこと、焼亡した両法華堂が幕府によって再興され、修復維持されていたことなどが記されている。義時法華堂の存続期間は、文献史料上の終見が延慶三年(一三一〇)であること(『鶴岡社務記録』等)、出土瓦の年代等から、元仁元年から鎌倉時代末期ころまでと推定される。
(文化遺産オンラインから引用)

ご祭神/ご本尊

源頼朝、北条義時

創立

源頼朝墓:1199年(正治元年) 北条義時墓:1224年(元仁元年)

文化財

法華堂跡 源頼朝墓・北条義時墓(国指定史跡)

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