ひらつかはちまんぐう
平塚八幡宮の編集履歴
ご由緒
本宮は、その昔鶴峯山八幡宮と称えられた古い社で、仁徳天皇の六十八年、この地方に大地震があり、人民の苦難のさまを聞召した天皇が詔して国土安穏祈願のため應神天皇をお祀りしたのが創祀であります。
天平勝宝の古記によると、顕宗天皇が、小年魚贄の膳部を定めてその料として、年々稲秀、麦、大豆を多量に献げられ、仁徳天皇は四千余町の土地をお寄せになられました。
推古天皇の代、この地方にまた大地震があり、人民の苦しみを見かねて天皇は”鎮地大神”のご宸筆を捧げて、国家安穏を祈願され、新たに社殿を造営になられ、天武天皇はこの地の税の三分の二をご寄進になり、文武天皇は”天晴彦”の宝剣を奉納になられたことを伝えて居ります。
寛永十四年筆録の八幡宮記、新編相模風土記によると、聖武天皇は相州一國一社の霊場として法華経を奉献されたということです。
岐阜県高山市山口に鎮座の桜ヶ岡八幡神社(旧郷社)は寛治元年、当宮のご分霊が勧請されたもので、高山祭で有名な桜山八幡神社の本社です。
東鑑によると、建久三年源頼朝は夫人安産のため神馬を奉納し、天正十九年には徳川家康は社領五十石を寄進し、慶長年間には自ら参拝し、伊奈備前守に命じて社殿の再建を行っています。正保三年幕府は社殿営繕料として山林二ヶ所を寄進しております。
明和二年平塚宿の僧本誉還真が十八年の間、浄財を集め、青銅の鳥居を奉献したことは青銅に刻まれて今も社頭に聳えています。
明治六年、官の達示により社名を八幡神社と改称しました。
明治二十七年、明治天皇の王女常宮、周宮両内親王殿下が参拝になられ、社頭に松樹をお手植えになり、神池へ緋鯉を放生になられました。
本宮は創祀の昔から”鎮地大神”と称えられ、厄除、招福の神として信仰厚く祭神の應神天皇、神功皇后は、大陸文化を採り入れた功績から、文化神として、又限りない慈しみと深い母性愛を表される母子神として、安産、生育、学業、武運の守護に、奈良、平安、徳川時代、現在と崇敬敬仰を集めてまいりました。
現在も横浜、川崎は勿論、東京、静岡方面の方々の信仰頗る厚く、宮詣りは後をたちません。
こうした厳粛な史実に輝く本宮は、昭和二十八年神社本庁の別表に掲げる神社として全国有名神社の代表の中に列なる栄誉を担い、現在に至って居ります。
昭和五十三年八月、本宮は”平塚八幡宮”の社号に改められ、なつかしい昔のよび名にかえりました。
創祀より数えて、実に千六百有余年、輝く歴史を奉戴し”神威愈々遍”の感慨一入でございます。
アクセス
JR東海道線 平塚駅北口より徒歩8分