もろおかくまのじんじゃ
師岡熊野神社の編集履歴
ご由緒
この神社は聖武天皇神亀元甲子年(西暦724年)に全寿仙人によって開かれ、熊野山の中腹に鎮座し、和歌山県熊野三社(本宮・那智・速玉)の祭神と御一体である。
仁和元年七月には、光孝天皇の勅使六条中納言藤原有房卿が此地に下向され「関東随一大霊験所熊埜宮」の勅額を賜わり、それ以来、宇多・醍醐・朱雀・村上天皇の勅願所として社僧十七坊が附せられた。数多くの古神事の中に現在続行されて居る筒粥神事は天暦三年より実に1060回余にもなる。
観応二年六月十七日、雷火のため社殿は消失したが、御神体・社宝は無事であり特に貞治三年の熊野山縁起は現存して神社の故事を伝えている。
例えば、勅使着用の大口袴は大口の地名に残り、供奉者の足を洗った子安足洗川、顔を清めた西寺尾町字面滝、馬の鐙を納めた鐙宮(阿府神社)、参向儀式の行われた式坂、更に「い」の池(指定地域史跡)、「の」の池、「ち」の池の故事等、枚挙にいとまがない。
室町期に北条早雲公、慶長四年徳川家康公、寛永十九年家光公、寛文五5年家綱公より御朱印地を戴いたのを始め、代々の将軍家の崇敬極めて篤く、神社への御朱印は幕末まで続けられた。
明治元年神仏分離の際、熊野神社と隣接の法華寺とに二分され、明治三年には県社に列格したが、氏子の陳情する所あって明治六年三十三ヶ村の郷社に列した。
その後、各所の整備造営工事を行ってきたが、平成十七年「平成の大修造」と称し、覆殿・翼殿をはじめとする壮大な造営事業を実施、更に平成二十六年「平成の大修造第二期」に着手し、手水舎新築、境内社整備参集殿改修等の事業を完遂し、面目を一新した。
当社は、関東地方における熊野信仰の根拠地として、また、横浜北部の総鎮守の宮として古代より現代に至るまで広く篤い崇敬を受けている。
編集前:この神社は聖武天皇神亀元甲子年(西暦724年)に全寿仙人によって開かれ、熊野山の中腹に鎮座し、和歌山県熊野三社(本宮・那智・速玉)の祭神と御一体である。
仁和元年七月には、光孝天皇の勅使六条中納言藤原有房卿が此地に下向され「関東随一大霊験所熊埜宮」の勅額を賜わり、それ以来、宇多・醍醐・朱雀・村上天皇の勅願所として社僧十七坊が附せられた。数多くの古神事の中に現在続行されて居る筒粥神事は天暦三年より実に1060回余にもなる。
観応二年六月十七日、雷火のため社殿は消失したが、御神体・社宝は無事であり特に貞治三年の熊野山縁起は現存して神社の故事を伝えている。
例えば、勅使着用の大口袴は大口の地名に残り、供奉者の足を洗った子安足洗川、顔を清めた西寺尾町字面滝、馬の鐙を納めた鐙宮(阿府神社)、参向儀式の行われた式坂、更に「い」の池(指定地域史跡)、「の」の池、「ち」の池の故事等、枚挙にいとまがない。
室町期に北条早雲公、慶長四年徳川家康公、寛永十九年家光公、寛文五5年家綱公より御朱印地を戴いたのを始め、代々の将軍家の崇敬極めて篤く、神社への御朱印は幕末まで続けられた。
明治元年神仏分離の際、熊野神社と隣接の法華寺とに二分され、明治三年には県社に列格したが、氏子の陳情する所あって明治六年三十三ヶ村の郷社に列した。
その後、各所の整備造営工事を行ってきたが、平成十七年「平成の大修造」と称し、覆殿・翼殿をはじめとする壮大な造営事業を実施、更に平成二十六年「平成の大修造第二期」に着手し、手水舎新築、境内社整備参集殿改修等の事業を完遂し、面目を一新した。
当社は、関東地方における熊野信仰の根拠地として、また、横浜北部の総鎮守の宮として古代より現代に至るまで広く篤い崇敬を受けている。
アクセス
東急東横線「大倉山駅」より徒歩12分。
駐車場
あり
参拝所要時間
約20分