さもんざんじょうがんじ|髙野山眞言宗|薩門山
薩門山乘願寺の御由緒・歴史
歴史詳細情報
【開基】
永禄5(1562)年に「島津義虎」が真言宗「無量寿院成願寺」を薩州島津家の祈願所として箱崎八幡宮と神仏習合の形で開基されたものの、明治期の廃仏毀釈によって寺社ともに荒廃した。
【中興縁起】
初代住職「全璋」が、出水市出身である「斑目日佛」のもと日佛寺(現在は京都嵯峨の大覚寺に霊明殿として移築)で修行を積み、師僧の死後その意思を受け継ぎ「柴田全乘」を第二の師として「草繋全宜・亀山弘応」の力添えもあり、廃仏毀釈によって真言宗の法燈が途絶えてしまった当市に「無量寿院成願寺」を中興する形で開山した。
【年表】
○昭和24年
当時国鉄職員であった全璋が、「日本一のお地蔵さん」を建立した真言宗僧侶の斑目日佛に弟子としてスカウトされ、第30代内閣総理大臣「齋藤實」が昭和恐慌の折に国民の自力更生を願って自費で東京に建立し、昭和22年時には吉田茂内閣の面々が役員に名を連ねていたとされる「日佛寺」で修行を開始。
○昭和29年
日佛死去に伴い、明治期の廃仏毀釈によって法燈が途絶えた出水市の真言宗寺院や西州高野山・大峯と呼ばれ修行の聖地であった紫尾山を復興するという意思を受け継ぎ、柴田全乘を第二の師とし西出水にて六畳一間の貸家を仮草庵とする。
◯昭和35年
現在地に移り「薩門山無量寿院乘願寺」として開山し、山号は日佛師が当地の霊山(愛宕山・紫尾山等)を「薩門山」と総称していた事から、院号・寺名の「無量寿院乘願寺」は永禄5(1562)年に「島津義虎」が箱崎八幡宮と共に神仏習合の形で薩州家の祈願所として開かれた真言宗「無量寿院成願寺」をもとに、第二の師であった全乘の名を一文字加え命名し中興された。
○平成18年
日佛師が紫尾山にて彫った地蔵尊(八坂神社隣)の手水所である水かけ地蔵尊の開眼供養厳修
○令和2年 「天凰院樂鳳堂」(聖殿)建立
令和期の天下大疫・異常気象に際して、日佛・全乘・全宜氏等から授かった様々な寺宝を納め、「天地安穏」を祈念する為に『天鳳院樂鳳堂』(通称「樂鳳堂」)を建立した。内本尊は完全秘仏で堂内は当山住職しか立ち入る事はできないが、開堂した11月には毎年記念法要が厳修され、外から網戸越しに拝観することができる。外本尊「仏母大孔雀明王」は屋根上に祀られ、役行者や蔵王権現の尊像も内部には保管されて山岳信仰の様相も強い。
↓外本尊 仏母大孔雀明王
◯令和5年 泉僧園道場「 雙岦庵」建立
近代真言宗を代表する慈雲尊者・釈雲照律師を参考に、僧侶・檀信徒問わず自らを律するための施設として『泉僧園道場 雙岦庵』を建立。「泉」は古来における「出水」の名称であり、修業は山行・滝行に象徴されるように「道場」内に留まらず市内の山川草木全てが「僧園」であるという意味が込められており、様々な修行を通して明治以前には西州高野山・大峰と称されていた「紫尾山」や「長野鳶山の滝」をはじめとした周辺地域の行場を復興する意もある。「雙岦」はそびえ立つ山々を表現しており、日本の根源たる「山岳信仰」や「自行」に立ち返り僧侶の仏事の研修や修法の鍛錬はもとより、一般の方々に対しても瞑想・写経の「庵」として活用されている。
ご本尊 | 薬師瑠璃光如来 | |
---|---|---|
創建時代 | 開基→永禄6(1562)年 中興→昭和35年(1960年) | |
開山・開基 | 開基→島津義虎 再興→島津家久 中興→全璋和尚 | |
ご由緒 | 【開基】
【中興】
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