いけのべはちまんじんじゃ
池戸八幡神社の編集履歴
ご由緒
池戸(いけのベ)八幡神社由緒
祭神
譽田別命(ほむたわけのみこと)
由緒
当神社は、昔から「生延(いけのベ)大宮」の名で呼ばれ、宝蔵院古暦記にも生延大宮(再興前は龜田八幡)と記載されており、一郷一社の氏神であった。
元慶八年(西暦884年)理源大師が創建し、延喜十四年(西暦914年)菅原道真が 社殿を改修、石清水八幡宮を勧請し、寺を応神山妙福寺と称した。 その後、七回の改修が行われるも、天正の兵火(西暦1583年頃)により社殿は 焼失してしまった。兵火の際、社僧が御神体を富坂(小野の古塚)の松の下 (現香川大学学部正門付近)に隠して守護したので、御神体は難を遅れた。
焼失から十九年後に河内国壷井からきた松原萬義成は、妻への神のお告げに より、富阪の松の下に御神体があることを聞き驚異、直ちに、社殿再興を 領主生駒一正に願い出た。一正は、家臣菅生兵部重長に命じて社殿を今の地に 造営し、そのままとしていた御神体を掘り出して清め、御座に納めた。 造営は、慶長七年(西暦1602年)八月十五日の棟札が現存しており、その頃から 神社は、御神体が生延び、再興されたことで「生延大宮八幡神社」として、 寺院については、寛永十五年(西暦1638年) 京都大覚寺今旨により応神山妙福寺の号を智光山恵徳 寺と改め、神仏習合の社寺として郷民信仰の中心となった。 当神社東側に位置する男井間女井間池は、千年以上前には雄沼(大なる男沼) 雌沼(小なる女沼)と呼ばれていたが、貞享年間(西暦1684年頃)の築堤によって 他が拡張され、現在の男井間女井間池となった。工事では、龍神の怒りを鎮め 工事の安全、五穀豊穣、無病息災を祈願し、龍を巻物にして御神体と共に奉った。 時が流れ の巻物は昭和六十三年(西暦1988年)本殿改修の折に 「生延大宮八幡神社」と書かれた箱の中から見つかったが、古色蒼然たる龍が うず巻いている様は、あたかも神霊が宿っているようであった。
明治元年(西暦1868年)神仏分離令による神仏習合の禁止後、当神社は村社に 列され、明治四十年(西暦1907年)には幣帛供進神社の指定を受ける。 再興後、四百年余り、改修を何度も繰り返してきたものの、社殿の損状況に 対して、社殿存続が危惧されたので、令和四年(西暦2022年)に幣殿・拝殿の われた。拝殿の床は、再興時から通しものの肥松板六枚で十五坪の座が 張られたという、非常に珍しく貴重なものであった。歴史的価値も高い肥松板と 拝殿正面に飾られた龍の彫り物などは、当神社の貴重な遺産として保存された。 近年、当神社は、「池戸八幡神社」と称されるのが一般的になったものの、 御神徳は、諸々の病気、災難を取り除き、幸せと長寿(生延)、龍の如く 運気上昇などの心願成就に、霊験新たかな神社として、この地に座している。
令和四年志拾月吉日 池戸八幡神社
駐車場
本殿北側に広い駐車場があります