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2025年05月30日(金) 14時53分 by神祇伯

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名前
編集前
弥勒寺
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三川大権現社(弥勒寺)
ふりがな
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みかわごんげんしゃ(みろくじ)
通称
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三川権現
ご由緒
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当山は今を去ること、一千三百有余年の昔、第四十代天武天皇の白鳳三年、役行者神変大菩産に依て開創されし古霊場であり、御本尊は菩薩一刀ニ礼の御作にして和州吉野山、伯州三徳山と共に歳王権現の日本三山の一なり。
後、第四十五代聖武の御世を経て第四十九代光仁天皇の宝亀元年に至りて、一万余坪の聖域に十間四面の荘麗なる蔵王堂を中心として諸堂・塔頭、宝蔵、僧房等、伽藍十八宇悉く落慶し、聖武・光仁両天皇様の熱願に依る山陰鎮護の祈願道場と定められる。
以来、山陰屈指の霊場、但馬国総祈願所として歴代園主、諸公をはじめ一般の尊崇いよいよ篤く降盛を極めし権現様であり、また神変御流修験道の根本道場として、奥の院に散在する行場、百余町歩余りに坊合五十余字、白衣の行者常住して修行にはげみしと言う
第百五代後奈良天皇の天丈七年雷火に依り奥の院を除く、分藍悉く山火を伴って焼失す。後、十五字の諸建造物の再建なるも天保三年三月空前の南風吹き荒れ、全山五メートルを越す積雪、一時に溶け、現在の本坊より約一五キロ真にある通称「底無しの沼」「蛇抜け」と称する山会の崩壊に依り発生せる、但馬有史以来と言われる大山津波(土石流
)のために、一万余坪の境内、千間四面の蔵王堂布藍諸堂宝蔵、大梵鐘その他すべて十五字、流失または地底深く埋没し山津波は十三
キロ下流の佐津の海を黄土の海に染めしと言う。
時の出石城主仙石、村岡城主山名の両公、再興を計りしも旧観に複するを得ず、時恰も明治維新に際会し、時の政府の排釈毀釈の暴挙に依り山門の衰顔その極に達す。時の住職寛光上人、現在の蔵王堂その他を再建するも、当事者その方法を誤りし為に反て苦境に頭し多くの寺有財産を失い、蔵王堂、回廊、庫裡、客殿その他今似て流失以前の規模に復せず。以来、百数十年・歴代法主あらゆる苦難の道を辿りながら寺門の興隆をはかり今日に至るも、世は常に有為転変、開山以来でまで一千三百有余年いくたびかの栄枯盛衰をくり返し、今は昔日の輪奥の美を想像する「よすが」もなし。されど、日本三大蔵王権現の一と言われる
御本尊様は神安にして霊験放光赫々として輝き、曽ては五月三日の大祭は、文字通り但馬三大祭の隨一にして、境内も道路も万余の人で埋まり、身動きもできぬ有様なりしが時代の変遷、八心の動き、いかんともいたし方なし。
平成四年二月には現住法主八十才の髙齢をおしてインドの(仏跡)お釈迦様の御遺跡を身行の巡礼をなし、念願の御霊砂を拝受して帰寺、霊場三川山も道路、駐車場、公園その他諸設備の完成と相まって、権現様ぽっくり尊・とげぬき大師、奥之院の御分身専西日本一カ所の日本百八十八カ所のお砂踏みに、遠近より大勢の方々のお詣りがあり、また國定公園、県立公園、ひょうご森林浴公園五十選の三川山の大自然を求めて入山する人々も、おいおいと増して近き将来に曽ての三川山大
権現の御霊験御威光の盛況は期して待つべしと。爾云[境内由緒書きより]
メールアドレス
ご祭神/ご本尊
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蔵王大権現
URL
見所
アクセス
参拝時間
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参拝自由
Introduction
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駐車場
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あり
トイレ
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あり
参拝所要時間
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約20分
参拝料
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なし
山号
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三川山
院号
創立
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白鳳三年(674年)
創始者/開山・開基
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役小角
本殿/本堂の建築様式
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入母屋造
巡礼
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日本三大権現
行事
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5月3日 三川権現大祭
文化財
ご神体
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