おやけじんじゃ
小宅神社のお参りの記録一覧
兵庫県たつの市にある神社です。
ご祭神は 応神天皇(おうじんてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)です。
神功皇后が三韓成敗に出向く際 いちはやく里長が奏上され それを喜ばれた皇后が奇石を贈られたそうです。
皇后が崩御されたあと この奇石を祀り まだこの地に神社がなかったことから 神殿を造営したということです。
まさに地域の民が皇后を慕って創基した神社ということですね。
小宅神社(おやけ神社)
~歴史探訪✴️野見宿禰と少宅秦公~
御祭神 應神天皇
配祀神 神功皇后
例祭日 10月15日
御由緒沿革
壱線八百余年の昔、現小宅は渓部之里と呼称されており、当時の里長は小宅泰之公 といわれる方でした。 小宅泰之公は、神功皇后三韓御征伐御還上に砌、御船を萩原の里に停泊された時、 品陀別天皇 ( 応神天皇 ) の庶兄であられる 麛(かご)坂王・忍熊王の叛逆を聞かれて、いち早く神功皇后に奉上されました。 この奉上に皇后はいたく喜ばれ、二王を打つべく出発せんとされた時、皇后は 小宅秦之公に韓人を複数名預けられ、一戸の奇石を賜られました。その奇石は楕円形体の 自然石で、漆黒色にして黒斑があり、実にきれいな奇石で、殊に皇后より賜りなるにより公は多いに喜ばれました。
その後、神功皇后が崩御せられた時、小宅家では皇后より賜った奇石を皇后の神霊としてお祀りし、崇敬された。 時を経て、持統天皇4年のことです。然しこの里には未だ神社がなく、里長智麻呂は現在の御鎮座地を清潔の地と選ばれ、神殿を造営、同年九月上旬すべての完成となる。小宅家祀られていた神功皇后の神霊と応神天皇の二神を管上され、小宅之里の産土神と崇敬され、祭典日を九月十五日と定め、小宅家の一族人となし今日に至っております。
保食神社(うけもち神社)
祭神 保食神(うけもちの神)
御由緒 創立は弘化五年戌申年二月(皇紀 2508年、西暦1848年)。山城国、伏見街道に沿える稲荷神社 (現伏見稲荷大社)の日本総本宮正官、羽倉(はくら)摂津守より勧請証書を授かる。大神は伊弉諾尊の御子神和久産巣日神 (わくむすびのかみ) の御子神で、誤解が原因で月夜見命に惨殺される。これに天照皇大神 はいたく惜しまれて、手厚く弔われたという。後に、天照皇大神の大饌都神(おおみけつのかみ、食べ物を司る神) として神宮の外宮にお祀りされている。
三神社
天照皇大神 伊弉諾尊が橘の小戸(おど)にて禊の際、左の眼を洗われた時に御生まれに なられた姫君で、月夜見命、素戔嗚尊と共に三貴子(みはしらのうずのみこ) と呼ばれ、神々の中で第一番の皇子。光華迷彩六合に照り徹る、神道中心の神様で、皇室の祖神として神宮内宮に お祀りされています。 天児屋根尊(あめのこやねのみこと) 才気換発にして天照皇大神の侍臣として仕え、重大会議には必ず参画されて 議して成らざるは無と云われた治国の功績高い神様。 藤原氏の遠祖で、大化の改新で活躍された藤原鎌足は21代目の後裔。 猿田彦尊大神は、身の丈頗る高く、顔赤くして鼻も高く、眼大にして威風堂々たる風格の 神様で、天照皇大神の霊に供奉して伊勢に赴き後に 五十鈴川の畔に閑居された。大神は良く道案内をせられた神様で、道祖神とも申されます。
霊神社
祭神 四位少将水尾民部橘朝臣以豊守神霊(しいのしょうしょうみずおみんぶたちばなあそんまさとよのかみかみたま)
御由緒 創立 延宝三巳卯年(皇紀2333年西暦1673年) 公卿で京都の上加茂神社の社家でもあられた公は、明暦年中に京都により下降せられ、小宅神社の祀官として奉職されましたが、延宝三巳卯年に病に かかり悩まされつつ尚且つ無人為非常に困窮され、臨終に近づくに際し、参拝者を枕元に招かれ 如何なる諸病・諸熱たりとも、わが霊に茶を煎じて供進するものは、大患いたちまち直すべきなりと遺言され、延宝三巳卯年五月十五日永眠されました。
以来、現今に至るまで公の御遺言を伝え伝えてお茶を供え祈願参拝される方が絶えません。
尚、能書家でもあられ今も近隣の神社には御真筆の扁額が残されています。
また、公は時の藩主脇坂公とも茶等を通じて御親交がおありでした。 公、亡くなられた後、里人等は公の御威徳を敬いて墓石、小祠を建ててお祀りし、民部の社と称して今日に至っております。宮第の中心部には多い焼けの御遺骨が納められております。
(境内説明文 )
境内社の前の林にも、白姫龍王社がありました。
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神功皇后三韓征伐凱陣の際 漢部里小宅秦之公麛(かご)坂王忍熊王の叛逆を應神天皇に内奏せしかば皇后之を嘉し給ひ楕円形の自然石を賜ひぬ
『播磨国風土記』揖保郡の小宅の里に鎮座。揖保川と林田川の間の地域。元の名は、渡来漢人が住んでいたから漢部の里と云われていました。小宅の秦君の娘と川原若狭の祖父が結婚し住んだ家を小宅と名付けたとあります。
西播磨地区においても古社の部類に属すると思います。小宅神社の御祭神、つまり応神天皇、神功皇后は当初小宅家にてお祀りされました。約1800年前のことです。小宅神社が建てられたのは伊勢神宮の内宮の第1回目の遷宮が完成した年、つまり持統天皇の庚寅(こういん)4年、西暦690年で約1300年前です。それ以前の里名は漢部(あやべ又はかんべ)の里と言われていました。この里名は播磨風土記にも記されています。
『兵庫県神社誌』
三韓征伐からの凱旋の際、御船萩原の里に碇せられし時、漢部里少宅秦公、坂王の叛逆を応神天皇に内奏せしかば、皇后これを喜し給い、楕円形の自然石を賜ひぬ。後、秦公は小宅氏を称し、彼の石を霊代として敬斎す。次いで川原の若狭の孫、智麻呂小宅の長となり、持統天皇四年、清浄の地に之を拝斎す。これ当社の創立なり。以上 現在の靈神社の祭神は四位少将水尾民部橘朝臣以豊守神霊となっている。
公卿で京都の上賀茂神社の社家。小宅神社の祠官として奉職、病にかかり困窮し、参拝者を枕元に招き、我が霊に茶を煎じて供進する者は、大患い忽ち直すべきなりと遺言。
小宅秦之公は秦氏一族。
『古事記』では神功皇后を天之日矛の後裔と位置づけてあり、応神天皇記に伝説が記されるのは神功皇后の出自を示す目的によるものです。
過去の但馬国一宮 出石神社で記載させて頂きました一文です。
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たつの市龍野町宮脇287
相生松
おまけ
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