浄土宗
阿弥陀寺のお参りの記録一覧
阿弥陀寺 法然松
宗派 浄土宗
御本尊 阿弥陀三尊
源平の戦乱(律令社会は崩壊、権力は京都王朝から鎌倉幕府に移る)が起こり、また地震、台風、飢餓など起こり、人々は無常を実感しました。平家物語の「祇園精舎の鉦の声、諸行無常の響きあり」、鴨長明、1115年(久寿2年)~1216年(建保4年)の方丈記の「ゆく河の流れは、絶えずして、しかももとの水にあらず」という言葉は、この時代に住む人々の実感を言い表したものです。
鎌倉時代の1207年(建永2年、承元元年)、75才法然上人の専修念仏弾圧事件(建永の法難、承元の法難とも)が起こりました。
法然上人は四国(土佐、実際は讃岐、香川)に、弟子の親鸞は越後(新潟)に流罪、また、安楽、住蓮含む弟子4名が死罪となりました。
法然上人は同12月、最勝四天王院供養の恩赦で赦免され、流罪4年にして、1211年(建暦元年)11月帰洛が許され、脇浜に上陸されました。
脇浜の富松右衛門邸へ滞在、讃岐から戻ってきた法然上人を歓迎したのが、脇浜の豪族富松右衛門です。
右衛門の邸にしばらく滞在した法然上人はありがたい法話を右衛門や脇浜の村人に説きます。 仏の教えが栄えるように松を植える そして仏のその教えが末永く栄えるようにと、右衛門邸の西南の浜辺に松を植えました。
村人はこの松を『法然松』と呼び大切に育てました。
そして右衛門は法然上人に弟子入り&出家。『法入』という戒名でお坊さんになり、自分の家をさし出してお寺にしました。これが脇浜にある阿弥陀寺の起こりだと伝えられています。
法然上人は老耄の徴候ががひどく、1212年(建暦2年)、80才、京都東山吉水(知恩院、京都)で入滅されました。
安永年間(1772年~1781年)に松は枯れ始めます。 その頃、この脇浜の道喜の夢の中に、不思議な老僧が現われ、「法然松が枯れようとしておるが、あの松の木で私の像をほってくれれば、末永く人々を救えるのだが」と語りました。
夢から覚めた道喜は「あれは法然さまだった。さっそく像を作って、お祀りしなくては」と村人にこの夢の話をして、法然像を作り、浜辺にも若い松を植えついで法然松を生まれかわらせたということです。
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月内に法然松と御朱印をリベンジさせて頂きます。
m(_ _)m
神戸市中央区脇浜町2―5―13
みのりこども園
1月8日 明石海峡
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