木舟山 順教寺の日常(72回目)|広島県志和口駅
当寺院では、桜の木が多いこともあり毎年桜が咲く3月下旬から4月の中旬くらいまで桜のライトアップをしています。
日の光に照らされる桜も綺麗ですが、ライトに照れされて闇に映える桜も幻想的な美しさがあります。
綺麗な夜桜を見ていると、ふと浄土真宗の開祖である親鸞聖人の「明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」という詩が思い返されます。
この詩には、「今咲き誇る桜の花も、嵐にあえば散ってしまうように、自分も明日は生きているかは分からない」という意味があります。
この詩は、親鸞聖人が9歳で得道(出家)される際に周囲からもう少し大きくなってから得道してもよいのではと諭された際に、自分の得道への強い思いを込めて読まれた詩だとされています。
親鸞聖人の言われるように、明日どうなるかは誰にも分かりません。今、綺麗に咲いている桜も明日も同様に咲いている保証はないわけです。
そんなことを考えると、毎日飽きるように桜を眺めるられる一瞬一瞬は、貴重な経験なのだということを思い知らされます。
日々、心を新たに生きないといけないなと考えさせられます。
すてき
みんなのコメント(2件)
熊谷 兼高さま いつもお世話様です。
「明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」
御聖人のことばは、響きますね。
日々新たに、とはお説法ではよく聞かされるのですが、それが自分にどれくらい響いているのかは疑問であります。
日常生活には、いいこと・いやなこと、交互に訪れてきます。
その理屈からすれば、いやなことがあっても、「一時のガマンだよ」ということになるわけです。
しかしわたくしのような凡夫は、それをわかっていながら気持ちを切り替えられない。
情けない話です。
御聖人のお言葉、手帳にメモさせていただきました。
折に触れて、見返したいと思います。
今回もよいお話、ありがとうございました。
弘法様、コメントありがとうございます。
気持ちの切り替えは、なかなか難しいですよね。
私も気持ちの切り替えに関しては、どうにか上手くいく方法はないかと悩んでいる所です。
自分に起きてほしくない事や受け入れがたい事が起きると人は心が浮足立ちますよね。
心が浮足立った時に、人間だから仕方ないと考え妥協することを良しとする自分がいます。
反対に、そんな自分をどうにか克服できないかと考える自分もいます。
私は、自分の気持ちが揺さぶられる事が起きた時にはその都度、この2つの考えの間を揺れ動いている感じです。
仏陀は、人を特に苦しめる苦として、八苦(はっく)を定義しています。八苦とはその字のごとく八(やっつ)の苦という意味です。この八の苦の一つに五陰盛苦(ごおんじょうく)という苦しみがあります。
この苦しみには、「自分の心や体が思い通りにいかないことで生じる苦しみ」という意味があります。
弘法様や私が悩んでいる苦しみも五陰盛苦になるのかと思います。
仏陀は、その苦を克服する上でこの世が一切皆苦(いっさいかいく)であるということを受け入れることが重要だと説かれています。
一切皆苦とは、「私たちの世界は自分の思い通りにならないことばかりである」という意味です。
一切皆苦を前提に生きる事ができれば、心の苦しみは軽減される又は無くなるというのが仏陀の教えです。
この教えですが理屈では、なんとなく分かるような気がします。
とはいえ、実践はかなり難しいなと思います。
そのため、私も弘法様と同様に悩んでいるところです。
そして、まだまだ精神修養が大事なんだと考えてもいます。
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