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2022年04月24日(日) 20時47分 bykeokeo˚✧₊⁎

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ご由緒
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寺伝によると宝亀年中(770~781)日光の輪王寺を開いた勝道上人が光善寺林(当寺から東南700m)に草庵を結んで修業し、光善精舎と号してこの地方の仏教教化につとめたという。
弘仁2年(811)3月、弘法大師が勝道上人の足跡をたずね、光善精舎に参籠して霊夢と感じ、自ら薬師如来像を彫って曲松(当寺から南南東600m)の地に薬師堂を建立して厄除けを祈願したといわれる。
暦応年中(1338~1342)、篠塚伊賀守重廣菩提のため大信寺としたという。
天正18年(1590)、小泉城落城の狼煙として灰燼に帰し、曲松の東方に寺林の地名だけが残ったという。
慶長19年(1614)、白譽萬覚上人の開基で浄土宗に改宗し、寛永年中、太田大光院の末寺となり寺運の隆盛をみた。
正徳元年(1711)頃、庄司小林若狭守利尚は日光修理の際、赤岩の渡船場より日光に運ぶ資材等の郷役のお礼に荒廃した大信寺を間巾七尺五寸、総欅にて十間角の本堂及び庫裡四間角を寄進し、更に上地中(現在の上寺中)に愛宕神社を建立し寄進した。
ご祭神/ご本尊
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阿弥陀仏
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阿弥陀如来坐像
文化財
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新田四天王の一人・篠塚伊賀守重広は、義貞の戦死後も南朝方として各地を転戦し、後醍醐天皇から伊賀守を賜りますが、1342年、新田一族の大館氏明に従軍した四国今治の世田城の籠城戦に敗れると、今治浦から船で魚島(愛媛県上島町)に逃れて3年過ごし、その後海路で波崎(茨城県神栖市)に帰還し、記念として船の碇石を陸に安置したそうです。邑楽町篠塚の大信寺にある重広の墓所には、その錠石と同型のものが置かれていますが、長さ2.5m、重さ400kgの碇石で、これを一人で担いだと言われています。