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2025年01月14日(火) 19時20分 byくし

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ご由緒
編集前
寛文元年(1661年)徳川三代将軍家光の第四子である徳川綱吉が25万石で館林城主になった。 このときの館林藩の城付の領地は、上野国館林領から、新田領、桐生領、下野国佐野領、足利領までに及んだ。
綱吉は、寛文から宝永年間にかけて、領地全域の検地をおこない年貢の増収を計ったが、こうしたなか、延宝三年(1675)の冬、領内の台之郷、石原、富田(現在は太田市域)などの村で年貢徴収にあたり、役人が「目こぼれ」と称し、年貢米一俵が三斗五升のところを一斗余分に徴収するという事件が起こった。
これに対し、山田郡台之郷村の小沼昌左衛門、森尻右馬上允、栗原四郎兵衛、富田村の小沼久四郎、石原村の栗原三左衛門をはじめとする18名の名主たちが代表となって、訴状を作成し、藩に申し立てを行ったが、役人に聞き入れられなかったことから、江戸へ上がり藩主に直訴を行った。これによって、農民救済の願いはかなったが、当時ご法度であった直訴を行った首謀者として18名は捕らえられ館林藩に引き渡され、延宝四年(1676)日向刑場において処刑された。その後、元禄十七年(宝永元年・1704)農民の犠牲となって処刑された18名への報謝の意を込め、その冥福を祈るため、日向村をはじめとする周辺の60数か村の村民により一体の地蔵尊が造られ、供養されてきた。以後「義民地蔵」と呼ばれている。ここは、日向刑場跡でもあり、江戸時代の領主と領民の係わり、特に年貢取立てでの状況を知る上で欠くことのできない遺跡である。
編集後
寛文元年(1661年)徳川綱吉が25万石で館林城主になった。
このときの館林藩の城付の領地は、上野国館林領から新田領、桐生領、下野国佐野領、足利領までに及んだ。
綱吉は、寛文から宝永年間にかけて、領地全域の検地をおこない年貢の増収を計ったが、こうしたなか、延宝三年(1675)の冬、領内の台之郷、石原、富田(現在は太田市域)などの村で年貢徴収にあたり、役人が「目こぼれ」と称し、年貢米一俵が三斗五升のところを一斗余分に徴収するという事件が起こった。
これに対し、山田郡台之郷村(太田市)の小沼庄左衛門、森尻右馬上允、栗原四郎兵衛。石原村(太田市)の栗原三左衛門。富田村(足利市)の小沼久四郎をはじめとする18名の名主たちが代表となって、台之郷村の安楽寺で血判連署した訴状をしたため、館林城に赴いて「目こぼれ」分の免除を嘆願するも聞き入れられなかった。
このため、やむなく百姓総代として小沼庄左衛門ら18人は江戸に上って幕府に直訴を行い、これによって農民救済の願いはかなったが、当時ご法度であった直訴を行った首謀者として18名は捕らえられ館林藩に引き渡され、延宝四年(1676)当地 日向刑場に処刑された。
その後、元禄十七年(宝永元年・1704)農民の犠牲となって処刑された18名への報謝の意を込め、その冥福を祈るため、日向村をはじめとする周辺の60数か村の村民により一体の地蔵尊が造られ、供養されてきた。以後「義民地蔵」と呼ばれている。
庄左衛門ら18人が密議を凝らし、願書をしたためた安楽寺は「願書寺」と呼ばれ、18人の処刑とともに閉所となったが、後に旧地の東隣に再興されて現在の「岩松寺」となっている。

【庄左衛門の娘】
首謀者・小沼庄左衛門の家族が皆殺しになると聞いた農民たちは、命を懸けて自分たちを救ってくれた庄左衛門の幼い娘だけはなんとしても助けようと大きな籠に入れて、行法院(不明、当時台之郷にあった修験寺「行宝院」(廃寺)の可能性あり)境内の藪中の古井戸に吊し匿ったという。

【日向刑場】
里道と県道との分岐点が三角形の雑木林となっていて、かつて里人は「はりつけ場」と呼んでいた。
「日向實記(ひゅうがじっき)」によると、延寶4年(1676年)2月15日、小沼庄左エ門等ら義民18名の首を並べて磔刑に処した場所であるという。当時は領主をはばかって、犠牲者に花をささげる自由を得なかったとあるが、間もなく館林は廃城となり代官支配となると、義民のために地蔵尊を建立してその冥福を祈ったという。
地蔵尊は今は、同村字一の共同墓地にうつされてあるが、これによると、元禄17年(1704年)2月15日に建立されたことが分かる。
日向刑場における伝えられている事はこれ以上の他は何もないとある。この場所の他に、青柳刑場(館林市青柳町)があるわけであるが、日向村に刑場を設けたのちに、天和、貞享の頃(徳川綱吉の頃)に青柳村に移転したものと想像される。
見所
編集後
江戸時代、「目こぼれ」と称する賄賂の免除嘆願の直訴を行い、周辺六十ヶ村の人々を救い処刑された小沼庄左衛門ら18人の義民を供養する地蔵尊。
創始者/開山・開基
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義民に救われた館林藩領の領民
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周辺六十ヶ村の村民
行事
編集後
末尾0か5の年の4月 供養祭