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2026年05月05日(火) 04時47分 byくし
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鶉茂木家文書によると、万治二年(1659) 村人が長良公の遺徳を慕って、邑楽町瀬戸井村(千代田町)長良神社から分霊し、鶉村中央の汚れていない土地に勧請した。 その際、瀬戸井長良神社の御神木をいただき、御神体として奉斎したと伝わる。 元禄八年(1695)名主 茂木忠左衛門重吉が村民と相談し荒廃していた社殿を改築。大工の棟梁は久保田村(足利市)の阿部久兵衛。 明治四十年(1907)、四十二年(1909)の二回にわたり地域内の神社合祀をおこなったため、祭神が十五柱と非常に多い。 拝殿内には文政三年(1820)や文久二年(1862)の絵馬をはじめ、明治以降に奉納された絵馬も多数掲げられている。 また『嘉永六年(1854)春三月 長良公祀』の横額も掲げられている。
編集後
鶉茂木家文書によると、万治二年(1659) 村人が長良公の遺徳を慕って、邑楽町瀬戸井村(千代田町)長良神社から分霊し、鶉村中央の汚れていない土地に勧請した。 その際、瀬戸井長良神社の御神木をいただき、御神体として奉斎したと伝わる。 元禄八年(1695)名主 茂木忠左衛門重吉が村民と相談し荒廃していた社殿を改築。大工の棟梁は久保田村(足利市)の阿部久兵衛。 明治四十年(1907)、四十二年(1909)の二回にわたり地域内の神社合祀をおこなったため、祭神が十五柱と非常に多い。 拝殿内には文政三年(1820)や文久二年(1862)の絵馬をはじめ、明治以降に奉納された絵馬も多数掲げられている。 また『嘉永六年(1854)春三月 長良公祀』の横額も掲げられている。 ―――――――――― 【うずらの鳴かぬ里】 足利の樺崎八幡宮に伝わる民話で、鶉の地名由来ともなっている。 ある時、足利義兼が鎌倉から足利へ向かう途中、この地でうずらを捕らえた。そのためこの地を「鶉」と呼ぶようになった。 その後、義兼と妻の時子はうずらの鳴き声を愛おしみ、金の籠に入れて大切に飼っていた。 ところがある夜、義兼の夢にうずらが現れ「私は立派な金の籠に飼われ、大変可愛がっていただいていますが、楽しくて歌っているわけではありません。古巣が恋しくて泣いているのです。どうかこの籠から放してください」と泣いて訴えた。 哀れに思った義兼は「お前の美しい鳴き声を聞くとまた飼いたくなってしまう、他の者に捕らえられてしまうかもしれない。これからはこの里では決して鳴いてくれるな」と言ってうずらを放してやった。 以来、樺崎では鶉の鳴き声を聞かなくなり、鶉の鳴かぬ里と言われるようになった。 また一説によるとこの話は、義兼が鶉で召し抱えた侍女を、親元に返してやった例え話とも云われている。