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2026年05月05日(火) 22時11分 byくし

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ご由緒
編集前
資料が見つからず詳細不明。
愛宕神社の社地に祀られているが玉垣で神域は区切られており、愛宕神社の境内社ではなく別の神社らしい。
三橋神については正体不明、安産の神として祀られている。
神仏習合の神らしく、御神体の石柱に梵字が刻まれており、勢至菩薩を示す「サク」、もしくは千手観音・阿弥陀如来などを示す「キリーク」、もしくは釈迦如来を示す「バク」のように見える。
――――――――――
※本地垂迹説で可能性のありそうな神
【伊邪那美命】
「キリーク」であれば、阿弥陀如来→熊野権現→伊邪那美命で、愛宕神社の加具土命の母であり、愛宕神社創建の公家が先祖供養で建てたのも阿弥陀堂なので、地元伝承との繋がりもある。
しかし加具土の出産が伊邪那美の死因のため、安産の神というのはやや疑問が残る。
同じ社地でも神域が厳格に分けられているのはこれが理由かもしれない
【神宮皇后・姫大神など】
「サク」の勢至菩薩は八幡の本地仏らしい。八幡神が安産の神とは思えないが、一緒に祀られていることの多い神功皇后や姫大神であれば可能性は高そうである。
愛宕神社には旭向八幡神宮が合祀されており、勢至菩薩は阿弥陀如来の脇侍なので、地元伝承との繋がりもある。
【藤原長良伝承で大蛇の犠牲になった娘】
三橋神社という社名が、長良伝承の「人柱の橋」と関係がありそうである。
犠牲になった娘が古くから土地の女神として祀られており、合祀令に難色を示される程度の信仰を集めていたのでやむなく厳密に神域を分けて祀ったのかもしれない。
ただしそれほど信仰を集めていた女神ならば伝承が全く出てこないのは奇妙である。
※「バク」の釈迦如来の垂迹神は男神が多く、あまり安産の神的なイメージもないので割愛(垂迹神に女神が全くいないわけではない)
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【亀田鵬齋(かめだぼうさい)誕生の地】
亀田鵬齋(かめだぼうさい) 儒学者
宝暦(ほうれき)2年(1752~1826)上五箇に生まれ、本名長興(ながおき 堂号 善身堂(ぜんしんどう)
「この子に最高の学問を授けたい」鵬齋の父萬右衛門(安長)(やすなが)は、我が子誕生に一大決心をし、離農をして一家で江戸へ出た。
鼈甲商(べっこうしょう)に職を得たが妻に先立たれ、子育てと、教育費の蓄財に心血を注いだ。
息子もこれによく応え、素読は飯塚肥山(いいづかひざん)、書は三井親和(みついしんな)、儒学は井上金峨(いのうえきんが)という一流の学者達に学び、どこでも頭角を現わした。
時満ちて「折衷学派」(せっちゅうがくは)の塾を開くと、旗本の子弟などで門人が千人余となり、名声を得た。 しかし「寛政異学の禁」により、異学の五鬼の筆頭とされ閉塾に追い込まれた。
だが、日頃から豪放磊落(ごうほうらいらく)、義気に富んだ彼は自己を貫き通した。天明の浅間焼け・大飢饉には、蔵書を売り払い救援に当てたり、自費で泉岳寺(せんがくじ)に赤穂義士(あこうぎし)の顕彰碑(けんしょうひ)を建てたりした。
越後方面へ下向の際には、地元の人達と交流し、特に良寛との友情は語り草になっている。
仕事面では三絶(書・画・詩文が共に秀逸)の書家として活躍し、生活面では酒をこよなく愛し、文人仲間【大田南畝(おおたなんぽ)・酒井抱一(さかいほういつ)・大窪詩仏(おおくぼしぶつ)・谷文晁(たにぶんちょう)など)】と、度々「八百善」へ操り出した。
墨蹟には、屏風・掛物・扁額・幟・碑等があり、千代田町を始め、各地に散在している。
また、その子孫は、綾瀬(りょうらい)・鶯谷(おうこく)・雲鵬(うんぽう)と四代までは学者・書家、五代黄雲は画家というのも希有なことである。
七十五歳で永眠。墓地は東京浅草称福寺(とうきょうとあさくさしょうふくじ)
この芭蕉の句碑は、出羽三山登山記念碑として建立された。3つの句は芭蕉が奥の細道のさいに出羽三山で詠んだものとされる。明治33年(1900)建立。
(境内の案内板より)
※三橋神社との関係は薄そうだが一応記載
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編集後
資料が見つからず詳細不明。
愛宕神社の社地に祀られているが玉垣で神域は区切られており、愛宕神社の境内社ではなく別の神社らしい。
三橋神については正体不明、安産の神として祀られている。
神仏習合の神らしく、御神体の石柱に梵字が刻まれており、勢至菩薩を示す「サク」、もしくは千手観音・阿弥陀如来などを示す「キリーク」、もしくは釈迦如来を示す「バク」のように見える。
――――――――――
※本地垂迹説で可能性のありそうな神
【伊邪那美命】
「キリーク」であれば、阿弥陀如来→熊野権現→伊邪那美命で、愛宕神社の加具土命の母であり、愛宕神社創建の公家が先祖供養で建てたのも阿弥陀堂なので、地元伝承との繋がりもある。
しかし加具土の出産が伊邪那美の死因のため、安産の神というのはやや疑問が残る。
同じ社地でも神域が厳格に分けられているのはこれが理由かもしれない
【神功皇后・姫大神など】
「サク」の勢至菩薩は八幡の本地仏らしい。八幡神が安産の神とは思えないが、一緒に祀られていることの多い神功皇后(息長帯比売命)や姫大神(候補地多数)であれば可能性は高そうである。
愛宕神社には旭向八幡神宮が合祀されており、勢至菩薩は阿弥陀如来の脇侍なので、地元伝承との繋がりもある。
【長良伝承で大蛇の犠牲になった娘】
三橋神社という社名が、長良伝承の「人柱の橋」と関係がありそうである。
犠牲になった娘が古くから土地の女神として祀られており、神社合祀令に難色を示されるほどの信仰を集めていたので、やむなく土地だけ同じくして厳密に神域を分けて祀ったのかもしれない。
ただこの説は、邑楽に漠然と拡がる長良伝承との繋がりはあるが、愛宕神社や上五箇地区そのものの伝承との繋がりが薄い。
※「バク」の釈迦如来の垂迹神は男神が多く、あまり安産の神的なイメージもないので割愛(垂迹神に女神が全くいないわけではない)
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【亀田鵬齋(かめだぼうさい)誕生の地】
亀田鵬齋(かめだぼうさい) 儒学者
宝暦(ほうれき)2年(1752~1826)上五箇に生まれ、本名長興(ながおき 堂号 善身堂(ぜんしんどう)
「この子に最高の学問を授けたい」鵬齋の父萬右衛門(安長)(やすなが)は、我が子誕生に一大決心をし、離農をして一家で江戸へ出た。
鼈甲商(べっこうしょう)に職を得たが妻に先立たれ、子育てと、教育費の蓄財に心血を注いだ。
息子もこれによく応え、素読は飯塚肥山(いいづかひざん)、書は三井親和(みついしんな)、儒学は井上金峨(いのうえきんが)という一流の学者達に学び、どこでも頭角を現わした。
時満ちて「折衷学派」(せっちゅうがくは)の塾を開くと、旗本の子弟などで門人が千人余となり、名声を得た。 しかし「寛政異学の禁」により、異学の五鬼の筆頭とされ閉塾に追い込まれた。
だが、日頃から豪放磊落(ごうほうらいらく)、義気に富んだ彼は自己を貫き通した。天明の浅間焼け・大飢饉には、蔵書を売り払い救援に当てたり、自費で泉岳寺(せんがくじ)に赤穂義士(あこうぎし)の顕彰碑(けんしょうひ)を建てたりした。
越後方面へ下向の際には、地元の人達と交流し、特に良寛との友情は語り草になっている。
仕事面では三絶(書・画・詩文が共に秀逸)の書家として活躍し、生活面では酒をこよなく愛し、文人仲間【大田南畝(おおたなんぽ)・酒井抱一(さかいほういつ)・大窪詩仏(おおくぼしぶつ)・谷文晁(たにぶんちょう)など)】と、度々「八百善」へ操り出した。
墨蹟には、屏風・掛物・扁額・幟・碑等があり、千代田町を始め、各地に散在している。
また、その子孫は、綾瀬(りょうらい)・鶯谷(おうこく)・雲鵬(うんぽう)と四代までは学者・書家、五代黄雲は画家というのも希有なことである。
七十五歳で永眠。墓地は東京浅草称福寺(とうきょうとあさくさしょうふくじ)
この芭蕉の句碑は、出羽三山登山記念碑として建立された。3つの句は芭蕉が奥の細道のさいに出羽三山で詠んだものとされる。明治33年(1900)建立。
(境内の案内板より)
※三橋神社との関係は薄そうだが一応記載
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Introduction