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みしまじんじゃ

三嶋神社の編集履歴
2023年09月06日(水)
群馬県 川俣駅

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keokeo˚✧₊⁎
2023年09月06日 19時25分

ご由緒

当社は「上州三嶋神社」を始め、近在からは「お宮」「三嶋さま」等と親しく呼ばれていますが、その正式名称を「三嶋神社」と称します。
江戸時代末期の弘化三年(1846)、火災により社殿
及び古記録の全てを焼失した為、創建年月を含む由緒については不詳です。社伝によれば、伊豆国の三嶋大社(静岡県三島市大宮町)から御神霊を勧請した地方の古社と伝えられています。
江戸時代以降、明治初年に至るまでは当社近在の梅原山・光明寺の住職が代々「別当」を務めていました。
歴代住職の当社に対する信仰心は篤く、当社が所蔵する神宝類や石塔からその様子を知ることができます。現在、御神座近くに奉安されている御神鏡も江戸中期の享保二十一年(1736)、当時の別当・光明寺弘誓と「惣氏子中」の寄進によるものです。
現在の拝殿は焼失の翌々年、嘉永元年(1848)から翌年にかけて再建されました。再建は別当・光明寺英猛と梅原村を中心に信仰域であった近隣の20ケ村の助力を得て進められ、再建を機に近隣より神主家の祖が招かれて社殿を管理するようになりました。以降、長年に及ぶ雨風や近年の大震災の影響によって現在に至るまでに
幾度かの改修工事が行われましたが、再建から170年近く経った今も往時の姿をしっかりと留めています。
近代に入ると明治五年(1872)十一月、近隣八ケ村(現在の明和町中部・東部)の総鎮守である「郷社」に定められ、地域総鎮守として篤く信仰されました。現在は群馬県を中心に、周辺の埼玉県や栃木県からも「勝負の神」「虎の神」交通安全や諸産業に霊験あらたかな神様として広く崇敬されています。
(リーフレット由緒書より)

編集前:当社は「上州三嶋神社」を始め、近在からは「お宮」「三嶋さま」等と親しく呼ばれていますが、その正式名称を「三嶋神社」と称します。
江戸時代末期の弘化三年(1846)、火災により社殿
及び古記録の全てを焼失した為、創建年月を含む由緒については不詳です。社伝によれば、伊豆国の三嶋大社(静岡県三島市大宮町)から御神霊を勧請した地方の古社と伝えられています。
江戸時代以降、明治初年に至るまでは当社近在の梅原山・光明寺の住職が代々「別当」を務めていました。
歴代住職の当社に対する信仰心は篤く、当社が所蔵する神宝類や石塔からその様子を知ることができます。現在、御神座近くに奉安されている御神鏡も江戸中期の享保二十一年(1736)、当時の別当・光明寺弘誓と「惣氏子中」の寄進によるものです。
現在の拝殿は焼失の翌々年、嘉永元年(1848)から翌年にかけて再建されました。再建は別当・光明寺英猛と梅原村を中心に信仰域であった近隣の20ケ村の助力を得て進められ、再建を機に近隣より神主家の祖が招かれて社殿を管理するようになりました。以降、長年に及ぶ雨風や近年の大震災の影響によって現在に至るまでに
幾度かの改修工事が行われましたが、再建から170年近く経った今も往時の姿をしっかりと留めています。
近代に入ると明治五年(1872)十一月、近隣八ケ村(現在の明和町中部・東部)の総鎮守である「郷社」に定められ、地域総鎮守として篤く信仰されました。現在は群馬県を中心に、周辺の埼玉県や栃木県からも「勝負の神」「虎の神」交通安全や諸産業に霊験あらたかな
神様として広く崇敬されています。
(リーフレット由緒書より)

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