ふさいじ|曹洞宗|龍洞山
普済寺の編集履歴
ふりがな
ふさいじ
ご由緒
普済寺は、室町時代後期(戦国時代)の大永三年(1523年)の開基で大雲伊俊禅師の開山となり、四百九十年をこえる歴史があります。
大雲伊俊禅師は始め五宝和尚にしたがって上州にきて長尾政景(ながおまさかげ、戦国時代の武将。上田長尾氏の当主で越後国坂戸城主。上杉景勝の実父。)と師僧檀家の交わりを約束、当時羽附字町谷(現 羽附旭町の一部)に一宇を建て龍洞山普済寺と号しました。大永五年(1525年)に伽藍を同村笹ヶ崎(つつじ団地)に移転したが、さらに天文年中(1532-1555)に長尾但馬守景長の帰依によって今の地に再建されたものである。
そのうち第五世中興の祖といわれる花翁和尚は長尾為景(ながおためかげ、越後国の戦国大名。越後守護代・越中国新河郡分郡守護代。上杉謙信の父。米沢藩初代藩主・上杉景勝は外孫に当たる。)の四男で徳川家康と竹馬の友であり、かつて家康が今川氏の人質から脱するときに功労があったという。
当寺の住僧になった安土桃山時代の天正十九年(1591年)、家康が豊臣秀吉の命を受け奥州の豪族達を攻略しての帰途、花翁はこれを古河町奉送したとき、大窪郷(大久保)今の邑楽郡板倉町大高島にきて駕籠を止め、親書の朱印をわたし大窪郷の内五ケ村百石を賜わりました。後世になりこの親書を折紙の朱印と称しました。
江戸時代中期の元禄八年(1695年)第十三世大雄禅師は、幕府の命によって大本山永平寺から常恒会免牘を得ました。
山門は、長尾景長の帰依により現在地に移った時に建立されたとも、大永五年に作られたものとも云われておりますが、ともあれ禅宗の典型的な山門となります。
境内にあるしだれ桜は、一説によると三百九十年前、徳川家康公が親木を植えたといわれています。現在のしだれ桜はその親木の根元から分かれて育った二代目の桜で、毎年見事な花を咲かせております。
鐘楼は山門から入って右側にあるのですが、山門の下にはケースに入った梵鐘があります。これは昭和五十年(1975年)三月六日に「銅鐘」として市指定重要文化財に指定されている梵鐘になります。
この銅鐘は、江戸時代初期の慶安二年(1649年)羽継村に住む小林太郎左衛門、小林彦左衛門、藤原安信の三人が、近郊の人々の助力によって、現世と来世の安楽を願って下野天命(現 栃木県佐野市)の鋳物師藤原重次 に作らせ寄進したものです。
鐘の大きさは、口径六九cm、銅の高さ九九cm、竜頭を含めると一二六cmになり、乳の配列は四乳四列、下帯の文様は巧妙です。 その姿は、全体的に細長く、駒の爪が大きく外に突出し、撞木座の部分がふくらみ、上部のツバが出ないなど、江戸時代の洪鐘の特徴を良く表しています。 銅鐘には「大日本国上野州邑楽郡佐貫荘 羽継郷志柄村龍洞山普済禅寺 遠近村里 四衆以助力 新奉鋳一鐘 而為二世安楽寄進焉者也 本願羽継郷住人 小林太郎左衛門 小林彦左衛門 江田讃岐守藤原安信 大工下野州天命住人 横塚内藤原重次前永平当山九世月新雪叟代新添之慶安二巳丑二月吉祥日」と刻まれ、寄進者や鋳師の名の他、銅鐘を鋳造し寄進した理由を読み取る事ができます。江戸時代初期の館林領内の様子を伝える資料です。館林かるたでは、「慶安の音を秘めた銅(あか)い鐘」と読まれています。
(境内案内板、普済寺由緒書、Wikより)
駐車場
あり
御朱印
あり