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2026年03月29日(日) 00時45分 byくし

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ふりがな
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じんこうじ
通称
ご由緒
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神光寺の寺域は、もとは鎌倉時代末期の文永二年(1265年)に、新田氏の一族 中野景継によって築城された中野城跡であった。
神光寺の前身である善正寺は、正和三年(1314年)に、景継の子で新田義貞家臣であった中野藤内左衛門景春が、持阿上人を招いて、前原(浅間神社付近)に開山したのが始まりと伝えられている。
延元3年(1338年)越前国の藤島の戦いにおいて、中野景春は新田義貞とともに戦死したため、中野城は一度廃城となる。
戦国時代、小泉城主 富岡氏配下の宝田和泉守が、中野氏の故城を修築し本拠としたが、天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐に伴い再び廃城となる。
江戸時代初期の寛永二年(1625年)に、前原から中野城跡に境内を移し寺号を「神光寺」と改称した。
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【神光寺の大カヤ】
境内には推定樹齢750年、樹高21m、根周り15m、目通り5.6m、枝張り東西20m、南北23mの大カヤがあり、貴重な事から昭和54年(1979)に群馬県指定天然記念物に指定されている。
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【志士之碑】
享保三年(1718年) 0館林藩領の農民たちが、年貢減免を求めて江戸に強訴におよぶ事件があった。
農民たちは、途中の板橋の宿で説得され、名主が代表して江戸の藩邸に年貢減免の哀訴嘆願をした。
その結果、年貢減免の要求は認められたが、翌年(1719年) 中野村の名主 竹岸武兵衛ら三人の名主が事件の首謀者として、斬罪、闕所(財産没取)、家族追放という重い処分を受けた。
これが「館林騒動」といわれるもので、三人の名主は、農民を救うために犠牲になった「享保の三義民
」として後世に語り継がれている。
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【キリシタン地蔵】
神光寺の参道入口に延命地蔵がある。
この地蔵の蓮華花台が十字架のように見え、邑楽町に伝わる隠れキリシタン遺物の一つではないかという説があるが、定かではないとのこと。
メールアドレス
ご祭神/ご本尊
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《本尊》阿弥陀如来
URL
見所
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新田義貞家臣 中野藤内左衛門景春の居城、中野城跡に建つ寺院。
アクセス
参拝時間
Introduction
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駐車場
トイレ
参拝所要時間
参拝料
山号
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廣学山
院号
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等照院
創立
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正和三年(1314年)
創始者/開山・開基
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(開基)中野景春 (開山)持阿上人
中興の祖
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不詳
Restored time
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寛永二年(1625年)
本殿/本堂の建築様式
社格
巡礼
行事
文化財
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神光寺の大カヤ(群馬県指定天然記念物)
志士之碑(邑楽町指定重要文化財)
ご神体
YouTube
Wikipedia
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