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2026年04月27日(月) 01時49分 byくし
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村名になっているように、江戸時代にこの付近に光善寺という禅院があったが、延宝年間(1673年~1681年)に廃寺になっている。 現在はこの大日堂と北約150mにある光善寺墓地に名残を残すのみ。 創建年代は光善寺のもの記載。これを見るとわずか10数年で廃寺になってしまったようであるが、資料が見つからず理由は不明。
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字名になっているように、江戸時代までこの付近に光善寺という禅院があった。 邑楽町篠塚にある大信寺の寺伝によると、奈良時代の宝亀年中(770-781)日光開山の勝道上人が草庵を結んで修業し、光善精舎と号してこの地方の仏教教化に勤めたと伝わる。 平安時代初期の弘仁二年(811)三月、弘法大師が勝道上人の足跡を尋ね、光善精舎に参籠して霊夢を感じ、自ら薬師如来像を彫って曲松の地に薬師堂を建立して厄除けを祈願したと云われる。 ただし大信寺の寺伝では、光善寺林があったのは大信寺の東南700m付近、薬師堂が祀られた曲松は南南東600m付近とされており、どちらも現在の光善寺の町域よりかなり西に離れている。 天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際、小当時北条方となっていた小泉城(現大泉町)も浅野長政らに攻め落とされており、この際に狼煙台となっていた光善寺も一度灰塵に帰しており、曲松の東方に寺林の地名だけが残ったという。 しかし光善寺は延宝年間(1673年~1681年)に廃寺になったとされており、いずれにせよ一度再建されその時に移転したか、あるいはいつの時代かに光善寺村の境域変更があったものと思われる。 なお、大信寺は慶長十九年(1614年)に白譽萬覚上人の開基で浄土宗に改宗し、寛永年中(1624-1645)太田義重山大光院(子育て呑龍)の末寺となっており、光善寺廃寺の時期と近い。 これら一連の動きが廃寺理由か、もしくは大信寺の前身が光善寺そのものなのかもしれない。 現在はこの大日堂と北約150mにある光善寺墓地に名残を残すのみ。 ―――――――――― ※ある資料では光善寺の創建は万治三年(1660)となっていたが、これだとわずか十数年で廃寺となってしまったことになり不自然。 この辺りにも上記の大信寺の動きが関連していると思われる。
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現在の字名となっている光善寺の名残り
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万治三年(1660年)
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宝亀年中(770-781)
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不詳
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勝道上人