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2026年05月03日(日) 18時07分 byくし

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ご由緒
編集前
文明二年(1470)この地の鎮守様として瀬戸井の長良神社(千代田町)から分霊を勧請し創建。
享保十二年(1727)正一位長良大明神の宗源宣旨を賜る。
享保十三年(1728)安政二年(1855)に社殿改築。
明治四十二年(1909)村内高挌社、琴平宮・愛宕神社を合併。大正四年(1915)神饌幣白料供進社に指定。
狸塚の鎮守様として崇敬されてきたが、太平洋戦争後社殿は老朽化荒廃していたため、昭和四十三年(1968)明治祭100年記念事業として社殿を新築し社務所を改築する。
――――――――――――――
【井河大明神】
摂末社の一社に「井河大明神」と彫られた石祠がある。これは当地の人々が館林藩主・井上河内守正春の善政に感謝し造立したもの。
天保七年(1836)に館林藩主となった正春がお忍びで城下を見廻ったところ、老夫婦を先頭に女たちが荒れ地を切り開いている光景に出くわした。正春が名主に「なぜ男たちはいないのか」と尋ねると、「この村には荒れ地が多く、しかも凶作続きで男たちは出稼ぎに出ている」とのことだった。これを聞いた正春は弘化二年(1845)に浜松藩に転封となるまで狸塚村の年貢を減免した。
本来なら「井上大明神」とするところだが、新しい藩主への遠慮から「井河」とした。
――――――――――
【井河大明神異伝①】
井河正春は館林藩主の前は陸奥国棚倉藩主であった。棚倉藩といえば大名左遷の地として有名だが、正春も父 正甫の醜聞が原因で懲罰的に移封されたと云われている。
正春は館林藩主となった後もかつての領地 棚倉藩にも尽くしていたため、館林の後の領主に遠慮して「井上大明神」ではなく「井河大明神」として祀られたとも云われる。
――――――――――
【井河大明神異伝②】
また邑楽町には、正春は浜松藩に転封されたのではなく処刑されたという伝承も伝わっていたらしい。
ある時、利根川の洪水でこの辺りの用水が破壊されてしまい、この窮状を見かねた正春が水田の年貢を減免してくれたので狸塚の農民は大いに助かったが、このことが幕府に知られ正春は処刑されてしまったのだという。
風聞等に頼るしかなかった当時の庶民の情報伝達の様子が垣間見られ興味深い。
編集後
文明二年(1470)この地の鎮守様として瀬戸井の長良神社(千代田町)から分霊を勧請し創建。
享保十二年(1727)正一位長良大明神の宗源宣旨を賜る。
享保十三年(1728)安政二年(1855)に社殿改築。
明治四十二年(1909)村内高挌社、琴平宮・愛宕神社を合併。大正四年(1915)神饌幣白料供進社に指定。
狸塚の鎮守様として崇敬されてきたが、太平洋戦争後社殿は老朽化荒廃していたため、昭和四十三年(1968)明治祭100年記念事業として社殿を新築し社務所を改築する。
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【井河大明神】
摂末社の一社に「井河大明神」と彫られた石祠がある。これは当地の人々が館林藩主・井上河内守正春の善政に感謝し造立したもの。
天保七年(1836)に館林藩主となった正春がお忍びで城下を見廻ったところ、老夫婦を先頭に女たちが荒れ地を切り開いている光景に出くわした。正春が名主に「なぜ男たちはいないのか」と尋ねると、「この村には荒れ地が多く、しかも凶作続きで男たちは出稼ぎに出ている」とのことだった。これを聞いた正春は弘化二年(1845)に浜松藩に転封となるまで狸塚村の年貢を減免した。
本来なら「井上大明神」とするところだが、新しい藩主への遠慮から「井河」とした。
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【井河大明神異伝①】
井上正春は館林藩主の前は陸奥国棚倉藩主であった。棚倉藩といえば大名左遷の地として有名だが、正春も父 正甫の醜聞が原因で懲罰的に移封されたと云われている。
正春は館林藩主となった後もかつての領地 棚倉藩にも尽くしていたため、館林の後の領主に遠慮して「井上大明神」ではなく「井河大明神」として祀られたとも云われる。
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【井河大明神異伝②】
また邑楽町には、正春は浜松藩に転封されたのではなく処刑されたという伝承も伝わっていたらしい。
ある時、利根川の洪水でこの辺りの用水が破壊されてしまい、この窮状を見かねた正春が水田の年貢を減免してくれたので狸塚の農民は大いに助かったが、このことが幕府に知られ正春は処刑されてしまったのだという。
風聞等に頼るしかなかった当時の庶民の情報伝達の様子が垣間見られ興味深い。