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2025年01月12日(日) 05時17分 byくし

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下野国梁田郡小曽根村字宮上第九拾八番屋敷内より掘り出されたお地蔵様で、何年位前に作られたものかはわからないが、来歴の伝説を申し述べてみたいと思います。
時は明治九年、屋敷所有者戸長倉上彦三郎氏の弟平松さん(嘉永五年十月九日生・当時二十五才)が分家に出た屋敷で、同年十二月吉日、杉浦政吉氏二女クラさんの婚儀のため平松氏は仲人として、上野の国邑楽郡篠塚村に出かけ一泊した。
儀式を無事終了して杉浦家に帰宅し、昼食をいただいているとき「火事だ!」と叫ぶ声が聞こえたので、飛び出してみると火の手は平松氏の家であった。
村の人達が駆けつけてくれた時は、機場が燃えただけで大火に至らず鎮火していたので、「これは不思議なこともあるものだ。」と、駆けつけた人達は驚いていたそうです。
出火の原因を調べたところ、十二歳になる娘に、留守中はた織を言いつけておいたところ、その二日間を遊んでしまい、父母が帰宅したあと、機を織らなかったことを知られ叱られると思い機ひに火をつけてしまったと話したそうです。
それから数日後、六法様(修行者)が訪れ「水をいただきたい。」と言って寄りこみ、水を飲みながら話しこんでいるうちに平松氏が「実は、私の家では火災にあいましたが、不思議なことに機場を焼いただけで火は消えてしまいました。」と話したところ、六法様は静かに座られ「この屋敷内には、火伏地蔵様が居られますね。」と言われたそうです。
平松氏は「心当たりがありません。」とお答えしたそうですが、六法様は、「いや、この屋敷内には必らずありますよ。」と言い残して、家をたって行かれたそうです。
それから平松氏は、毎日ひまをみつけては家のまわりの笹やぶや木の根を掘りおこしてお地蔵様をさがしたそうです。その翌年、ようやく地蔵と供養塔を掘り出して、屋敷の南西の角に九尺二間の茅葺き屋根のお堂を建ててまつりこみ、毎年十月にはお地蔵様を洗い表門前の皆様が供養とお祭りをしてくださっておりました。また四月には「桜祭り」と称して、念佛講の方々が念碑をあげておられました。
ところが、昭和十二年に志那事変が始まり、昭和十六年大東亜戦争へと進み。大国を相手にした第二次世界大戦へと戦争が拡大していきました。男子は軍隊に引き出され、女子も軍需工場に挺身隊として招集されるという中で、火伏地蔵尊のことは忘れられていきました。昭和二十年八月十五日に終戦にはなったものの食糧難の時代で、そのまま忘れられておりました。
戦後の経済復興が軌道にのり、暮らしも落ちついてきた昭和三十八年の頃から五・六年の間に表門前に相次いで火災が発生し、自然鎮火一戸・家族だけで消火したもの一戸・半焼一戸・全焼三戸という様に、貴重な財産を焼失してしまいました。
この頃、だれ言うとなく「表門前には、火伏地蔵さんがあるのだから、守護してもらえるように供養とお祭りをしてさしあげようではないか。」と言う意見が出されました。これに皆が賛同して、毎年十月、元のように祭りを実施することになりました。
お祭りを行っていくうちに、お堂の屋根の老朽化と傾きが激しくなってきたために、新築を協議し、昭和五十三年九月三十日完成、同年十月吉日を選び、盛大なる完成祝賀のお祝いを行い今日に至っています。
倉上屋敷門前においては火災もなく、火伏地蔵尊のご加護の賜物と一同感謝申しあげております。
メールアドレス
ご祭神/ご本尊
編集前
《本尊》地蔵菩薩
編集後
《本尊》火伏地蔵菩薩
見所
編集後
屋敷を火事から救った火伏地蔵。
屋敷の主人が行者のお告げにより敷地内から掘り出し祀ったと伝えられる。
参拝時間
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山号
院号
創立
編集後
嘉永五年頃(1852年)
創始者/開山・開基
編集後
倉上平松
本殿/本堂の建築様式
巡礼
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文化財
ご神体
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