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2026年03月26日(木) 00時30分 byくし

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ご由緒
編集前
資料が見つからず由緒不明。
本堂も単独堂宇のような小さな寺院で、おそらく無住寺。
創建年代は境内の青面金剛像の紀年より推測。
境内南西角に松本5号墳という小さな古墳があり、その北側に薬師堂が立つ。 
編集後
南北朝時代から戦国時代に掛けて、この付近には石打城があり、光明寺は城の守り寺として城内に建てられたという。
境内には弁天様や薬師様が祀られている。
城の東側は全部寺の土地で古墳がたくさんあり、中でも有名なのは貝吹山と首塚であった。
ある戦いで石打城が攻められた時、敵軍は一本木・藤川方面(北東―東側)から夜討ちを掛けられ、光明寺や正伝寺(現在の慶徳寺)は敵の間者に放火され焼け落ちてしまった。
敵軍はその火を目当てに攻め立てたのでとうとう落城し、敵味方双方に多数の戦死者が出た、その首を埋葬したのが首塚である。
貝吹山は古墳群の中で一番高い山で、その上に登って兵士達を鼓舞するために法螺貝を吹いたのでその名がついた。
後に寺は再興したが、過去帳などは落城時に全て焼失してしまい古いことはわからなくなってしまったという。
(広報おうらより 一部抜粋)
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【石打城の歴史】
南北朝時代に石堂右馬丞によって築城される。
この石堂右馬丞は、足利氏の支族の中に石堂(石塔)氏を称している一族がいることから、それに連なる人物だと思われるがよくわかっていないらしい。
その後は石打兵部少輔という人物が城主となるが、この人物についてもよくわかっていないという。
戦国時代になると、石打城には足利長尾氏の家臣である北爪助八が置かれた。
上杉謙信が関東出兵を行った際、この地域に勢力を伸ばしていた小泉城の富岡氏に対して置かれたのが北爪助八であり、これによって富岡氏も上杉謙信に属することになった。
見所
編集前
小さな寺院。
境内南西角に小さな古墳がある。
編集後
小さな寺院。
石打城という南北朝~戦国期の城の守り寺として城内に建てられたという。
またこの一帯は古墳群でもあり境内南西角にも小さな古墳がある。この古墳は石打城落城時の首塚でもあるらしい。
中興の祖
Restored time
社格