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2026年05月07日(木) 02時12分 byくし
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中島将監屋敷跡は、面積約一町歩(一ヘクタール)、西南は用水路で区画され(昔は溝堀)、北西には溝堀の旧跡がある平林でしたが、明治四十一年(1908)に畑地になったといわれています。 ここに、宝亀年間(770~781)頃、中島三郎太郎家綱という郷士が住み、富子という美しい娘がいました。その頃、都から藤原小黒麻呂が諸国巡検のために上野国に入り、この中島館に滞在しました。その時、富子との間に知勇兼備の男子が生まれ、やがてその子孫が広く佐貫荘一円(邑楽・館林地方)を治めていたと伝えられています (現地案内板より) ――――――――――― 奈良時代、中島三郎家綱(将監)という郷士が住んでいた屋敷跡とされる。中島将監は佐貫氏の祖といわれる佐貫太郎資高の祖父。 宝亀年間(770~81年)に藤原北家の祖・房前(藤原不比等の次男)の孫にあたる小黒麻呂が、当地を訪れ将監の館に滞在した。 その折、将監の娘・富子と結ばれ資高が生まれた。宝亀十年(799年)の出来事とされる。 資高は知勇兼ね備え、成長すると佐貫太郎資高と名乗り佐貫庄の基礎を固めた。 資高の子 資綱、孫 嗣綱も智勇にすぐれ、庄内に一族を配置し勢力を拡大した。この資高の系統の佐貫氏を「藤原小黒麻呂流」と言う。 明治四十一年の開墾時、多くの板碑と人骨の入った甕が発見されている。板碑は文字の読めるものが16基あり、最古は弘安七年(1282年)の銘があったとされる。 塚上に石神・板碑などが数基立つのみだが、佐貫荘および長柄神社を初めとした邑楽町・千代田町周辺の寺社縁起に深く関わる藤原小黒麻呂や佐貫氏に関係する重要霊地のため登録。
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石神や板碑が数基立つ塚だが、佐貫荘や長柄神社を初めとした邑楽町・千代田町の寺社縁起に深く関わる、藤原小黒麻呂ゆかりの霊地
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宝亀年間(770~781)
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中島三郎太郎家綱
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石神