しんのうじ|高野山真言宗|醫王山
心王寺の編集履歴
ご由緒
天慶3年(940)2月14日、常陸の国岩井の戦いに敗れた平将門公は、一族郎党を引き連れて渡良瀬川を遡り、毛里田只上に住居をかまえた。
只上は当時、天然の要地であったため、小俣鶏足寺を攻略したのだといわれている。しかし、天慶3年旧7月23日、平将門公は桔梗前の反逆によって藤原秀郷や貞盛によって討たれた。
その後、毎年この時期になると天地が荒れるので土地の者が平将門公の仮遺体を作り、鶏足寺にて供養し、それを渡良瀬川に水葬した。
その胴体は、只上に。足は市場の八幡宮裏に。手は五十部の大手様前に。腹は大前の大原神社前に流れついた。そこで各々の流れついた処に神社を建立したと伝えられている。
当寺は、約670年前に岡崎一族が建立し、岡崎寺としたがその後、心王寺と改名した。また、平将門公及び兄弟郎党一族の霊を供養して死後の平安を祈った。
江戸時代に只上は、下野の国から上州へ編入となり渡良瀬川が境となった。そして、館林藩の統治下となり藩主の榊原・松平・徳川・秋本の各藩主の祈願寺となった。
現在、上小林 南光寺が兼務させて頂ております
(寺院HPより)
【別伝】
平将門の乱の際、藤原秀郷の命を受けた当時の住職である慈正上人が将門の調伏の祈祷を行ったと伝えられている。
(群馬県に残されている藤原秀郷の伝説より)
こちらの説が正しければ平安時代にはすでに創建されていたことになる。
編集前:天慶3年(940)2月14日、常陸の国岩井の戦いに敗れた平将門公は、一族郎党を引き連れて渡良瀬川を遡り、毛里田只上に住居をかまえた。
只上は当時、天然の要地であったため、小俣鶏足寺を攻略したのだといわれている。しかし、天慶3年旧7月23日、平将門公は桔梗前の反逆によって藤原秀郷や貞盛によって討たれた。
その後、毎年この時期になると天地が荒れるので土地の者が平将門公の仮遺体を作り、鶏足寺にて供養し、それを渡良瀬川に水葬した。
その胴体は、只上に。足は市場の八幡宮裏に。手は五十部の大手様前に。腹は大前の大原神社前に流れついた。そこで各々の流れついた処に神社を建立したと伝えられている。
当寺は、約670年前に岡崎一族が建立し、岡崎寺としたがその後、心王寺と改名した。また、平将門公及び兄弟郎党一族の霊を供養して死後の平安を祈った。
江戸時代に只上は、下野の国から上州へ編入となり渡良瀬川が境となった。そして、館林藩の統治下となり藩主の榊原・松平・徳川・秋本の各藩主の祈願寺となった。
現在、上小林 南光寺が兼務させて頂ております
(寺院HPより)
創立
室町時代初期 (別伝)平安時代
編集前:室町時代初期