こくずいじ|黄檗宗|鳳陽山
国瑞寺の編集履歴
ご由緒
国瑞寺は、徳川四代将軍家綱の頃、江戸時代初期の寛文七年(1667年)に笠懸野の開発をされたときの代官である岡上景能(おかのぼりかげよし)により創建され。宝元年(1673年)、景能が師事していた独湛性瑩(どくたんしょうけい)禅師(明国から渡来した黄檗宗の僧。俗姓は陳氏。福建省興化府莆田県の出身。後の黄檗宗四代官長)により開山。
国瑞寺の現在の山門は、東京の三鷹にある「霊泉山禅林寺」より移築したもので、独特な形の山型の山門は牌楼(ぱいろう)式、または漢門と呼ばれる中国独特のもの。
現在の本堂は平成十五年(2003年)に改築され、客殿はその時に建立。
同市笠懸町久宮にある四天王山臥龍庵(国瑞寺別院末寺)を兼務しています。
【開基者 岡上景能】
岡上景能は江戸時代初期の代官。
足尾銅山の銅生産の向上と輸送の効率化を図るための足尾銅山街道(あかがねかいどう)の整備や、渡良瀬川から水を引く笠掛野御用水・岡登用水堀の開削等、当時荒れ地だった笠懸野の開拓に大いに貢献した。
しかし、この大事業達成による功績や名声を妬む心なき人々の悪口、同僚官吏による嫉妬による讒言、下流域住民の余水の湧水問題などへの苦言により、幕府から江戸への召喚命令を受け、切腹を申し付けられ駕籠の中で自刃(切腹)したと伝えられる。
時に貞享四年(1687年)十二月三日、享年五十余歳であったと云われている。
江戸に召喚された理由については、用水路建設の費用に年貢米を流用してしまった。年貢米を流用したと同僚からの讒訴にあった。水利権の既得等で揉め、事業内容や湧水問題で讒訴にあった。苦労して用水を造ったが維持管理ができず、同時に用水としての効用が発揮されず、又下流農民からは悪政と騒がれ訴えられたなど諸説あり。
景能は、生来剛直、淡白で国のため、人のためならば世論に関せずただ実行に命をかけても遂行する開拓人であったという。
当時、国瑞寺住職であった桃巖(とうがん)禅師は、そのような人々のいる世情にあっても正しき眼により景能の人柄・功績を称え「岡上雪江伝」という書物を残す。
国瑞寺には「岡上雪江伝」のほか、景能が切腹した際の短刀、位牌がある。
明治十七年(1884年)九月二十九日になり、生前の功が認められ、名誉回復が計られると共に、明治天皇の朝旨を得て金五拾円が明治政府より下賜。大正四年(1915年)十一月十日には従五位を贈られる。
国瑞寺には景能の墓所が置かれ、現在も笠懸野の住民の尊敬を集めている。
ご祭神/ご本尊
《本尊》釈迦如来
編集前:釈迦如来
見所
笠懸野の開拓に貢献した岡上景能所縁のお寺
山号
鳳陽山
創立
延宝元年(1673年)
創始者/開山・開基
(開基)岡上景能 (開山)独湛性瑩
文化財
岡上次郎兵衛景能の墓 (群馬県指定重要文化財)