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2023年10月07日(土) 01時54分 byシンくん
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福手兵部少輔生國は出雲の国 其の時大乱世にて処々の武士度々戦ひ、故に1178年(治承2年)福手氏産れ國立ち退き 代々の氏神八幡宮を供奉して当郡相先村内もと祖手村に城を築き暫く居住し、 1181年(養和元年)当郡西乙原村花庵の城に移り其の時下屋敷を各地に建て然して当社を安置し、 1208年(承元2年)亦当地字中岩山に遷座す。夫れより当地の氏神となせりと云ふ。
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福手兵部少輔生國は出雲の国 其の時大乱世にて処々の武士度々戦ひ、故に1178年(治承2年)福手氏産れ國立ち退き 代々の氏神八幡宮を供奉して当郡相先村内もと祖手村に城を築き暫く居住し、 1181年(養和元年)当郡西乙原村花庵の城に移り其の時下屋敷を各地に建て然して当社を安置し、 1208年(承元2年)亦当地字中岩山に遷座す。夫れより当地の氏神となせりと云ふ。 当社は平安時代中頃の書物「美濃国神明帳」に記されている『郡上七座』の内の一座、 杭本明神である。 髄本の地名は杭本明神の「くいもと」が転じたものであると考えられる。 1177年〜1180年(治承年間)に出雲国から相生村へきた「福手兵部少輔」は、村内に八幡宮 を奉祀した。 その後、西原村へ転居した際、八幡宮を当地の中若山に遷座し、 更に杭本明神の神殿へ遷座して八幡神社とし、由堵ある古社の為、維新前迄領主より高一斗一合を寄付されていた。 また当社には十四枚の棟札が残っており、 最古のものは1772年(安永元年)である。 八幡神社が杭本明神につながる古社であるから、その別当寺が有ったと考えられる。 赤池の田中家流の「美濃一鏡系図」によれば「門福手村、岩伊山蓮生寺、沙門妙道法師」とある。 系図に書かれた位置がら戦国時代に、現在の門福手集会所付近に別当寺があったと推定。 この場所には、鎌倉時代頃に建立と思われる宝篋印塔や五輪塔が祀られており、寺跡の伝承にも重なる。 (美並村史より) また島居は、1975年(昭和50年)頃迄は長良川の河原のすぐ脇に立っていた為 当社は「川に後事する人々(筏流し、鉱道等に後事する人々)の安全祈願として、 祀られていたのではないだろうか」と言う説も、、、。