こうとくいん|真言宗智山派|法樹山
広徳院の編集履歴
ご由緒
【 開基と広徳院の成立 】
久安2年(1150)に、藤原清衡の娘である徳姫が磐城氏のもとへ嫁ぎました。
彼女は山谷の静けさと霊気に感動し、一寺を建立することを発願しました。
鏡意上人がこの地の開基となり、徳姫の一字を取って広徳院と名付けられました。
その後、門葉たちが集まり、寺門は隆盛を極めることとなりました。
【 兵火による災禍と再建 】
しかし、元亀元年(1570)に相馬・岩城氏の争いが起こり、一朝にして当山の伽藍は火の海と化しました。
この災禍により、伝承や古記録などの貴重なものがすべて失われました。
徳川時代には平藩主の外護を受け、寺領30石を有する存在となりましたが、地方政治の変遷により推移が難しくなりました。
安政3年(1856)には野火によって全焼し、平藩主内藤義孝公の寄進であった本尊秘仏聖観世音菩薩を残すのみとなりました。
【 戦後の興隆 】
明治維新および太平洋戦争の時期には、当山も衰退の一途をたどりました。
しかし、戦後になって本堂と聖天堂を再建し、法灯恵命を灯して寺門の興隆を見ることができました。
これによって、広徳院は再び復興の道を歩んでいくこととなりました。
編集前:久安2年(1150)に、藤原清衡の娘徳姫が磐城氏のもとへ嫁ぎ、森閑とした山谷の霊気に感動し、その発願によって鏡意上人が開基となり、この地に一寺を建立しました。
徳姫の一字を取って広徳院と号し、その後、門葉が集合して寺門隆盛を極めたと伝えられています。
しかし、元亀元年(1570)、相馬・岩城氏の争いによる兵火が一朝にして当山伽藍を火燼に化し、伝承の什物や古記録一切を失いました。
徳川時代には平藩主の外護を受けて寺領30石を有しましたが、地方政治の変遷により推移が難しく、安政3年(1856)には野火によって平藩主内藤義孝公寄進の本尊秘仏聖観世音菩薩を残し、全てを全焼しました。
続く明治維新、そして太平洋戦争には当山も衰退の一途を辿りましたが、戦後には本堂・聖天堂を再建し、法灯恵命を点じて寺門の興隆を見ました。