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やつるぎじんじゃ

八剱神社の編集履歴
2023年05月22日(月)
福島県 草野駅

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ダイコン
2023年05月22日 15時37分

ご由緒

【 創建 】
当社は昔、住吉大明神を祭神とし、小さな社殿でありました。
かつては下高久小舘(小舘高久小次郎の居城)の西山に位置し、氏神として敬愛されていました。
勧請は平安時代の中頃、天喜年間(1053〜1057)に行われました。
源頼義公と源義家父子が京都の藤原氏の政治に従わず、東北の豪族である安部一族の頼時・貞任を討つ命令を受け、鎮守府将軍として東夷征伐(前九年の役)に来られた際に、八劔明神に詣でられました。
八幡太郎義家公は自身が帯刀していた鶴丸の宝剣に錦の御旗を添え、奉納し、必勝を祈願されました。
さらに、熱田神宮の日本武尊の遺品の一部を移し、勧請しました。
これにより、社殿の造営も行われ、八劔神社と呼ばれるようになりました。
【 社殿を移し造営 】
その後、火災に見舞われたため、鎌倉時代の建長2年(1250年)に勧請の地である小舘の山頂から現在地に移されました。
岩崎氏の保護と敬神の支援によって神社社殿が再建され、勧請鎮座となりました。
さらに、延亨元年(1744年)には磐城内藤備後守のご加護を受け、本格的な社殿が建築されました。
これが現在の本殿となっています。
【 整備と改修 】
その後、寛政10年(1798年)の11月には現在の神社同様の本殿に拝殿と幣殿が加えられ、神社としての環境が整備されました。
さらに、天保2年(1831年)には雨屋も完備され、現在に至っています。
昭和時代には本殿の土台を高めたり、拝殿の屋根を葺き替えるなどの改修が行われました。
また、勧請の地小舘に「奥宮」を再建しました。

編集前:平安時代中期ごろ、東夷征伐(前九年の役)平定の為に当地を訪れた源頼義、義家父子が宝刀を奉納し必勝祈願を行い、更に、尾張国熱田神宮より日本武尊の遺品を勧請したと伝えられています。
その後火災に見舞われ、建長2(1250)年小舘より現在の地に鎮座されました。
延享元(1744)年磐城平城主内藤備後守のご加護を受け社殿を御造建されました。
秋の祭礼には獅子舞が奉納されます。

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