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飯野八幡宮の編集履歴
ご由緒
【 社伝と歴史 】
源頼義が康平6年(1063年)奥州出征時に、京都の石清水八幡宮を勧請したと伝えられています。
また別の伝承では、源頼朝が文治2年(1186年)に、関東地方における石清水八幡宮の荘園の総社として祭祀を行うようになったそうです。
建永元年(1206年)には北条政子が社殿を造営遷宮しました。
宝治元年(1247年)には北条時頼が、幕府政所執事の伊賀光宗(宮司飯野家の祖)を好嶋西荘の預所に任命しました。
その後、宮司の飯野家が預所職と神主職を兼ねるようになり、現在まで受け継がれています。
【 南北朝時代~室町時代 】
その後、南北朝の混乱により社殿が焼失しましたが、建武2年(1335年)には足利尊氏に訴願し、好嶋荘地頭衆によって修復されました。
その間、御浜出の神事(潮垢離)や放生会における流鏑馬の神事など、数多くの祭礼行事が執り行われました。
室町時代には神領が減少しましたが、岩城家は所領を寄進し、天文20年(1551年)には梵鐘を奉納。
岩城五郡の総社として一般庶民からも厚い信仰を集めました。
【 江戸期の遷座 】
慶長7年(1602年)鳥居忠政が「磐城平城」を築城することとなり、境内地にかかるため現在の地に遷座しました。
その後、慶長19年に火災に遭い、元和2年(1616年)に再建。
延宝2年(1674)の大改修の際には、こけら葺き入母屋造りとなり、幣殿・拝殿も造立されました。
幕府からは神領400石の朱印地が与えられ、歴代の磐城平藩主も50石の土地を寄進するなど、篤い崇敬によって護持されてきました。
【 仏堂 】
本地垂迹の説によれば、八幡大菩薩の本地仏は阿弥陀如来とされます。
そのため境内には末社の他に、阿弥陀堂、釈迦堂、地蔵堂、十王堂、鐘楼などの仏堂が立ち並んでいました。
さらに周辺には16の供僧寺が軒を並べて、ひときわ荘厳さを加えていました。
【 明治~現在 】
宮司飯野家のもとで、社家32人、神子8人、真言宗16ケ寺の供僧たちが奉仕していました。
しかし、明治初年の神仏分離令により、供僧寺とともに仏堂施設も除かれました。
明治6年には宮号の使用が禁止となり「飯野八幡神社」と称していましたが、昭和36年に飯野八幡宮に戻りました。
また明治12年に県社に列せられました。
編集前:【 社伝と歴史 】
源頼義が康平6年(1063年)の奥州出征時に、京都の石清水八幡宮を勧請したと伝えられています。
また別の伝承では、源頼朝が文治2年(1186年)に、関東地方における石清水八幡宮の荘園の総社として祭祀を行うようになったそうです。
建永元年(1206年)には北条政子が社殿を造営遷宮しました。
宝治元年(1247年)には北条時頼が、幕府政所執事の伊賀光宗(宮司飯野家の祖)を好嶋西荘の預所に任命しました。
その後、宮司の飯野家が預所職と神主職を兼ねるようになり、現在まで受け継がれています。
【 南北朝~室町時代 】
その後、南北朝の混乱により社殿が焼失。
建武2年(1335年)には足利尊氏に訴願し、好嶋荘地頭衆によって修復されました。
また御浜出の神事(潮垢離)や放生会における流鏑馬の神事など、数多くの祭礼行事が執り行われました。
室町時代には神領が減少しましたが、岩城家は所領を寄進し、天文20年(1551年)には梵鐘を奉納。
岩城五郡の総社として一般庶民からも厚い信仰を集めました。
【 江戸期の遷座 】
慶長7年(1602年)、鳥居忠政が「磐城平城」を飯野八幡宮の旧社地へ築城することとなり、現在地に遷座しました。
その後、慶長19年に火災に遭い、元和2年(1616年)に再建。
延宝2年(1674)の大改修の際には、こけら葺き入母屋造りとなり、幣殿・拝殿も造立されました。
また、幕府からは神領400石の朱印地が与えられ、歴代の磐城平藩主も50石の土地を寄進するなど、篤い崇敬によって護持されてきました。
【 仏堂 】
本地垂迹の説によれば、八幡大菩薩の本地仏は阿弥陀如来とされます。
そのため境内には末社の他に、阿弥陀堂、釈迦堂、地蔵堂、十王堂、鐘楼などの仏堂が立ち並んでいました。
さらに周辺には16の供僧寺が軒を並べて、ひときわ荘厳さを加えていました。
【 明治~現在 】
宮司飯野家のもとで、社家32人、神子8人、真言宗16ケ寺の供僧たちが奉仕していました。
しかし、明治初年の神仏分離令により、供僧寺とともに仏堂施設も除かれました。
明治6年には宮号の使用が禁止となり「飯野八幡神社」と称していましたが、昭和36年に飯野八幡宮に戻りました。
また明治12年には県社に列せられました。