ふもんじ|臨済宗妙心寺派|如意山
普門寺(北目観音堂)の編集履歴
ご由緒
≪北目観音堂≫
【普門寺と観音堂の歴史】
平・北目の普門寺は、正和2年(1313年)に僧痴鈍によって開かれました。
しかし、境内に建つ観音堂の箱蓋には「当如意山普門寺観音堂正安2年(1300年)6月28日示寂」という墨書きの文字があります。
後代に書かれた可能性もありますが、北目に普門寺が開かれる13年前に観音堂が焼失したようです。
【普門寺の移転と観音堂の位置】
普門寺はかつて慶長年間に平・胡麻沢にあり、その後久保町へ移り、さらに正和2年(1313年)に現在の場所に再興された寺です。
したがって、観音堂も以前は別の場所に建っていたものと推測されます。
普門寺が建立されてから観音堂がここに移されたと考えられます。
【北目観音の特徴】
北目観音の本尊は木造寄せ木造りで、一面に六臂(一つの顔に六本の腕)を持つ蓮華八重座に座した如意輪観音です。
蓮華座を除いた像の高さは1m以上あり、片膝を立てた思惟の形をしており、6本の腕や宝冠も完全な形を保っています。
如意輪が手に車輪を持つのは、菩薩が車輪をどこにでも転がせるように、意のままに現れて人々の悩みや苦しみを取り除くことを示しています。
【作品の優れた表現】
光背が外れて額の白毫が失われているものの、像の優れた表現から、有名な仏師による作品と思われます。
ただし、造仏の時期や仏師の名前は不明です。
編集前:【北目観音堂】
平・北目の普門寺は、正和2年(1313年)に僧痴鈍によって開かれましたが、境内に建つ観音堂内の箱蓋には「当如意山普門寺観音堂正安2(1300年)年6月28日示寂」という墨書きの文字があります。
後代に書かれた可能性もありますが、北目に普門寺が開かれる13年前に観音堂が焼失したようです。
示寂とは本来は菩薩または高僧の死を指す言葉ですが、この文脈では観音堂の焼失を指していると解釈してもよさそうです。
普門寺もかつては慶長年間に平・胡麻沢にあり、その後久保町へ移り、さらに正和2年(1313年)に現在の場所に再興された寺です。
したがって、観音堂も以前は別の場所に建っていたものと推測されます。
普門寺が建立されてから観音堂がここに移されたと考えられます。
北目観音の本尊は木造寄せ木造りで、一面に六臂(一つの顔に六本の腕)を持つ蓮華八重座に座した如意輪観音です。
蓮華座を除いた像の高さは1メートル以上あり、片膝を立てた思惟の形をしており、6本の腕や宝冠も完全な形を保っています。
如意輪が手に車輪を持つのは、菩薩が車輪をどこにでも転がせるように、意のままに現れて人々の悩みや苦しみを取り除くことを示しています。
光背が外れて額の白毫が失われているものの、像の優れた表現から、有名な仏師による作品と思われますが、造仏の時期や仏師の名前は不明です。