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2023年05月23日(火) 17時24分 byダイコン
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【 佐麻久嶺・事始めの由来 】 「五十猛命」とは「須佐之男命」の御子であり、別名「大屋毘古命」とも称されます。 由緒記によれば、この神は紀伊国名草郡日前国懸大神の分身であり、「佐(伊佐於志)」の上下を略した功の意味を持ち、「麻久」は蒔を指し、嶺は美称を表します。 五十猛命は紀州に降臨し、多くの木の種を持ち、大八洲国内の田畑や山丘にまいて造化を助け、天下に大きな功績を残したため、山の神や農の神、そして種をまいたことから「事始めの神」として敬われています。 【 歴代の崇敬 】 勧請は慶雲元年(704年)の4月7日と伝わります。 延暦年間(782~806年)のある時、坂上田村麻呂は東征の際、武運長久を祈願するために薄磯の海浜で潮垢離(しおごり)の神事が執り行われました。 その後、源義朝や足利尊氏、徳川家康なども祭使を派遣し、神事を行いました。 しかし、応仁の乱(1467年)の頃には、神官である中山彦次郎(小野氏の祖で一時は中山領主)は戦乱に巻き込まれ、祭事を中止し、旧記や神領などを全て失ってしまいました。 【 応仁の乱と再建 】 応仁の乱の影響で神官の娘は一時的に矢田村へと移り住み、神を勧請して郷の人達が社を建てました。 しかし、神霊は元々の場所(中山)を慕い、毎夜中山の嶺から光を放ちました。 そのため、当時の村主である植田平六はこの噂を嫌い、社を取り壊してしまいました。 彼の子孫は神の怒りにふれて滅亡したといいます。 その後、元の場所に社を遷しました。 天和2年(1682年)3月には雷火によって焼失しましたが、翌年の8月に平城主である内藤義泰が再建し山林一町歩を寄進して、現在に至っています。 また、境内の南下には「神宮寺跡」と称される畑があると伝えられています。 旧社格は郷社です。
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《主》五十猛命
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《主》五十猛命(須佐之男命の御子)別名/大屋毘古命
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車:常磐道「いわき中央IC」より、約25分 電車:「JRいわき駅」下車、駅よりバス・タクシーなど公共交通機関を利用して約20~30分
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慶雲元年(704)4月7日