こんこうじ|高野山真言宗|養照山
金光寺(中山観音)の編集履歴
ご由緒
【 「中山」と呼ばれる由来 】
「久保中山観音」と呼ばれていますが、実際には久保に中山という地名は存在しません。
かつては、観音堂が久保と神白の境に当たる山地の栗木平という場所に祀られていました。
今でもここには巨石や背の高い赤松が残り、太平洋を一望できます。
御詠歌の「中山」とは、栗木平の周辺に山があったため、お堂の所在地を「中山」と名付けたものでしょう。
現在でも栗木平は「観音平」と呼ばれ、寺領地となっています。
【 観音堂の移転と御本尊の特徴 】
現在、観音堂が祀られている場所は、久保西之作の金光寺境内山手に当たります。
伝承によれば、棟札には「明和6年(1769年)8月1日に奉建立再興十一面観音像霊法久住」と記されており、この年に栗木平の観音堂から現在の場所に移されたと考えられます。
御本尊の十一面観音は、白木の寄せ木造りの座像で、高さは一丈(約3m)にも及びます。
頭上には化仏と阿弥陀立像が飾られ、左手には蓮華のつぼみを持っています。
【 領主の信仰と観音信仰の栄え 】
また、磐城三十三観音霊場第札所7番の「法田観音」も中山観音と同様に巨大であり、両者ともかつては湯長谷藩の領地でした。
領主である内藤氏は観音信仰に深く帰依し、その信心に支えられて双方に見事な像を安置できたのでしょう。
金光寺の住職は布教の心意気が高く、近年では観音堂へ至る境内の整備に努め、巡礼者の便を向上させると共に、自らも観音を守護し、観音の功徳が衆生に広く及ぶことを願っています。
編集前:「久保中山音」と呼ばれていますが、久保に中山という地名はありません。
かつては、観音堂が久保と神白の境に当たる山地の栗木平という場所に祀られていました。
今でもここには巨石や背の高い赤松が残り、太平洋を望むことができます。
御詠歌の「中山」というのは、栗木平の前後に山があったために、お堂のあった場所を「中山」として名付けたものでしょう。
栗木平は今でも「観音平」と呼ばれ、寺領地にもなっています。
現在、観音堂が祀られている場所は、久保西之作の金光寺境内山手に当たります。伝存される棟札には、「明和6年(1769年)8月1日に奉建立再興十一面観音像霊法久住」とあるため、この年に栗木平の観音堂から現在地に移されたと考えることも、あながち間違いではないでしょう。
御本尊の十一面観音は、白木の寄せ木造りの座像で、その高さは一丈(約3m)あります。
頭上に化仏と阿弥陀立像を戴き、左手につぼみをつけた蓮華を持っています。
札所7番の山田仁井谷の法田観音に祀られている千手観音も巨大であり、その山田村も久保村も藩政時代には共に湯長谷藩の領地でした。
領主の内藤氏は観音信仰に篤く、そうした信心に支えられて、双方に見事な像を安置できたのでしょう。
金光寺の住職は布教の心意気が高く、近年、観音堂へ至る境内を整備し、巡礼者の便を高めるとともに、自らもよく観音を守護し、観音の功徳が衆生に及ぶことをひたすら念じています。