たまやまかんのんどう
玉山観音堂の編集履歴
ご由緒
【 鎌倉時代から明治時代までの寺の栄光と衰退 】
鎌倉時代から江戸時代にかけて、大野一帯はいわき地方における仏教の中心として大いに栄えました。
恵日寺や薬王寺は共に多くの末寺を持ち、「満福寺」という御詠歌は玉山観音堂の近くに建っていた恵日寺の末寺でした。
しかし、明治時代を迎えると神仏分離令が発せられ、寺院の権威は失墜し、満福寺は排仏毀釈の流れの中で廃寺となりました。
【 玉山観音堂の歴史と再建 】
玉山観音堂の参道を登りきって境内に立つと、広大な村落が東西に広がります。
境内の北側には観音堂が建ち、堂内には一枚の棟札があります。
「安永元年(1772年)観音堂と往古の棟札焼失」
「天明2年(1782年)岩城城主安藤対馬守藤原信明供養」
と記されています。
これにより観音堂が焼失したことが分かりますが、その10年後の天明2年(1782年)には既に堂宇が再建されていたことがわかります。
観音巡礼の衰退も時流に沿ったものでしたが、地元では昭和7年(1932年)に屋根を瓦に替えるなどの修復が行われました。
【 玉山観音堂の所属と御本尊 】
昭和16年(1941年)3月、国の宗教団体法が変わり、独立仏堂である玉山観音堂は同年9月に新義真言宗知山派本寺である「恵日寺」に所属することになりました。
これは戦時下における「仏堂処理の布令」によるもので、各地の観音堂や地蔵室もこの布令により近隣宗派寺の傘下に入ることとなりました。
玉山観音堂の古来の御本尊は像高6寸8分の十一面観音でした。
しかし、その美しさに惹かれた何者かが御尊像を持ち去ってしまったため、恵日寺の秘仏であった寄せ木造りの聖報音を観音堂へ入仏しました。
頭上に置く太目の高垂髻の特長は鎌倉時代の作風を物語ります。