さめがわかんのんどう
鮫川観音堂の編集履歴
ご由緒
【 かつてあった岸正寺 】
現在の観音堂の地所には、宝永年間(1704年-1711年)以来、岸正寺(がんじょうじ)という観音様を祀る寺が建っていましたが、再度の火難にも遭いました。
その後再建されたものの、江戸時代の末期にはすでに無住の寺となっていました。
【 神仏分離令と排仏毀釈 】
明治元年(1868年)を迎え、神仏分離令が施行されました。
また、この地にあった泉藩の徹底した排仏毀釈も寺院に影響を与え、寺院などには武士階級の者が住まわせられるようになりました。
【 再建と本尊の変遷 】
明治8年の字限図によれば、現在の観音堂が建てられた場所は、角多久一の所有地であり、そこには「かつては両村によって建てられた観音の地とされますが、本多能登守藤原忠紀の家来である角多久一が拝領しました」との記述があります。
したがって、明治8年当時には既に観音堂は取り壊されていたのです。
この由緒に触発された地域の旧家の方が、明治40年8月に現在の観音堂を再建し、由緒に従って十一面観音を祀りました。
さらに昭和7年に至って、光り輝く黄金色の木造寄木造りの像で、約60cmの高さを持つ十一面観音(御本尊写真上段)が本仏として祀られるようになりました。
【 旅人の守護者 】
かつての浜街道では、明治5年まで鮫川を船で渡る必要がありました。
そんな難所に、人々を水難や火難、そして虫毒からも守るために、十一面観音が鎧を纏って立ちました。
旅人たちの安全な旅を見守る役割を果たしました。
御詠歌「くもさめ川」は、苦しみも鎮められる聖なる鮫川を指しています。
編集前:【 かつてあった岸正寺 】
現在の観音堂の地所には、宝永年間(1704年-1711年)以来、岸正寺(がんじょうじ)という観音様を祀る寺が建っていましたが、再度の火難にも遭いました。
その後再建されたものの、江戸時代の末期にはすでに無住の寺となっていました。
【 神仏分離令と排仏毀釈 】
明治元年(1868年)を迎え、神仏分離令が施行されました。
また、この地にあった泉藩の徹底した排仏毀釈も寺院に影響を与え、寺院などには武士階級の者が住まわせられるようになりました。
【 再建と本尊の変遷 】
明治8年の字限図によれば、現在の観音堂が建てられた場所は、角多久一の所有地であり、そこには「かつては両村によって建てられた観音の地とされますが、本多能登守藤原忠紀の家来である角多久一が拝領しました」との記述があります。
したがって、明治8年当時には既に観音堂は取り壊されていたのです。
この由緒に触発された地域の旧家の方が、明治40年8月に現在の観音堂を再建し、由緒に従って十一面観音(御本尊写真下段の白木造り像)を祀りました。
さらに昭和7年に至って、光り輝く黄金色の木造寄木造りの像で、約60cmの高さを持つ十一面観音(御本尊写真上段)が本仏として祀られるようになりました。
【 旅人の守護者 】
かつての浜街道では、明治5年まで鮫川を船で渡る必要がありました。
そんな難所に、人々を水難や火難、そして虫毒からも守るために、十一面観音が鎧を纏って立ちました。
旅人たちの安全な旅を見守る役割を果たしました。
御詠歌「くもさめ川」は、苦しみも鎮められる聖なる鮫川を指しています。