あかいだけやくし じょうふくじ|真言宗智山派|水晶山
赤井嶽薬師 常福寺の編集履歴
ご由緒
【 地震と疫病 】
天平6年(734年)には、東北地方で大地震が発生しました。
その後、疫病が広がり、多くの人々が病に倒れ、命を落とすという悲劇が続きました。
この惨状を聞いた大和国鷲峰山の住僧・源観上人は、遠く離れた地での報告に動揺を覚えました。
【 源観上人の開基 】
源観上人は、善無畏三蔵伝来の秘仏である薬師如来を持ち、苦難を乗り越えて当地にたどり着きました。
剣ケ峰に登り、草堂を建て、薬師如来像を安置しました。
そして、37日間にわたり熱心に祈りをささげ、見事に疫病を終息させることに成功しました。
源観上人が薬師如来を持ち上げようとすると、その像はまるで大岩のように重く、持ち上げることができませんでした。
この奇跡に驚いた上人は、この山が薬師如来と深い縁を持つ霊地であることを悟りました。
そのため、上人はここに草庵を結び、日夜修法と写経に励みました。
また、この時に上人が写経した数百巻の薬師本願経は、山頂に埋められ「経塚」と呼ばれており、現在は本堂の背後に位置しています。
【 徳一大師による中興 】
約72年後の大同元年(806年)、徳一大師が当山を訪れました。
剣ケ峰は険しい坂道であり、風雪によって草堂も大きな被害を受けていました。
徳一大師は、より適した霊域を求めて周辺の山中を巡り、現在の場所に堂塔伽藍を建立することとしました。
以来、約1,200年にわたり、常福寺は繁栄を続けています。
【 常福寺の概要 】
常福寺は真言宗智山派に所属している戦前の別格本山で、広大な境内は3万3千坪に及びます。
数百年にわたって成長した杉や檜の森が林立し、その間には巨大な岩が点在しています。
この風景は、まさに天下の霊域としての名にふさわしく、格式の高さを示しています。
編集前:天平6年(734年)、奥羽地方で疫病が流行しました。
この惨状を聞きつけた大和国鷲峰山竹林寺の住僧、源観上人は、龍智菩薩の作と伝えられる三国伝米の薬師如来像を持って、磐城の地に下向しました。
源観上人は、現在地より西北の剣ケ峰に草庵を結び、薬師如来像を安置して、百日間の修法と写経に精進し、病気の平癒を祈願したとされ、これが常福寺の始まりと伝えられています。
その後、70余年が経った大同2年(807年)、南都の名僧・徳一大師が剣ケ峰に詣でましたが、山などの高く険しいことに加え、さらに荒廃した堂宇に心痛し、現在の地、赤井岳に堂宇を建立して薬師如来を移祀しました。
以来、法縁が絶えることなく現在に至り、特に安産祈願の赤井岳薬師として、広くその名を知られています。
文化5年(1808年)、白河藩城主松平定信公より医王殿の扁額が奉納され、その直筆は今も寺宝として大切に保存されています。
また、文政11年(1819年)には、嵯峨御所の祈願所にもなっています。
中興34世純栄大和上、同35世頼栄大和上は真言宗智山派管長、総本山智積院化主並びに真言宗長者をそれぞれ勤めています。
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