まさかどじんじゃ
将門神社の編集履歴
ご由緒
将門大明神
祭神 平新皇将門
桓武天皇を祖先として父平良将と共に下総の国相馬郡岩井村に住居し、下総の国の開発と共に住民の生活安定に心血をそそぎ信望を集めたり。
父良将は陸奥鎮守将軍と下総介であった。
将門公は相馬の御厨の下司職を父と共に世襲す。
風早村大井将門山に出城を置き、布瀬高野に高野御殿を築き、土塁跡は今も保存されている。
律令制から荘園制への改変過程で、領土問題より上総の国日立の国と爭いを起す。
京都朝廷より将門追討の命を受け藤原秀郷、関東に下る。
田原藤太秀郷戦勝祈願の為、成田に不動明王を祭る。
日立の国主平貞盛と協力して将門公と戦う。
天慶三年二月十四日春一番の突風に遭い戦斗困窮せる時、羽鳴り鋭く飛んで来た鏑矢、右眼を射抜き砂塵の中に落馬す。
時に午後三時、相馬小次郎将門公再び立たず。
之を承平天慶の乱と云う。
第三女の如蔵尼、父将門居住の此の地に祠を立て、その霊を弔う。
社殿は幾度か新築改造されたり。
一、将門大明神拝殿 一宇 正徳二年
二、新造立花表 一宇 享保七年
三、新造立平親王将門宮 一宇 延亨元年
四、新造立花表 一宇 明和三年
五、造立閉植 一宇 寛政二年
六、彩色将門大明神雨屋 一宇 文化三年
七、再建将門大明神 一宇 安政六年 霜月
現在の本殿は江戸末期安政六年の建立にして記念の木札七枚を保存す。
五尺宮社流総檬破風造り屋根は寄棟造り茅葺鉄板で覆ってある。
千葉氏五代常胤、祖先将門公を偲び社殿を復興したとの伝説もある。
基壇の部分に放れ駒や隻眼の人物像がある、放れ駒は九旺星と共に将門公の用いた紋とされている。
茨城県岩井市にある國王神社には共通する伝説がある。
将門神社の社名は日本中唯一にして当社のみ。
区民一同信仰尊敬し霊験あらたかな産土神。
我等の幸を守らせ給へ。
昭和六十年己丑年 区民一同拍手再拝