ひろはたはちまんぐう
廣幡八幡宮の編集履歴
ご由緒
御創建は、第59代宇多天皇の御代「下総国第一鎮守宇多天皇勅願所」として鎮座されたと伝えられている。後、鎌倉時代に至り、建久年間四年(1193年)後鳥羽天皇の御代に、柏市近郊一帯の総鎮守(守護神)として再び社殿が創建された。又、徳川時代に至って、慶安三年(1649年)には、三代将軍家光公より御朱印地(領地)十石を献上された。「下総旧事情」によると、御朱印神社は、下総国で64社、葛飾郡内で18社、柏市内では当社と塚崎の神明宮の2社のみである。宝暦七年(1758年)には、伯州刺吏藤原正珍公より、旧領采地、病気平癒の御札として石華表(石鳥居)一基を寄進された。これは当宮の外、布施弁天、塚崎の神明宮の二社一寺に寄進されたものです。
御祭神は、誉田別名(15代応神天皇)・気長足姫命(神功皇后)・玉依姫命で、合祀による御祭神は、仲哀天皇・武内宿称の二柱です。
現在の御本殿は、天保年間(1830年~1843年)造営のものと伝えられ、権現流れ造り、基礎の石垣は安土桃山時代(1573年~1595年)の形式を遺す貴重なものであり、又御本殿周囲の彫刻は、御祭神の事跡を刻んだもので、正面より右側は「養老の滝の図」、左側は「応神天皇を御抱き上げの図」、背面ものは、「里の童山武士を神社に案内の図」で精巧秀麗なものです。
編集前:御創建は、第59代宇多天皇の御代「下総国第一鎮守宇多天皇勅願所」として鎮座されたと伝えられている。後、鎌倉時代に至り、建久年間四年(1193年)後鳥羽天皇の御代に、柏市近郊一帯の総鎮守(守護神)として再び社殿が創建された。又、徳川時代に至って、慶安三年(1649年)には、三代将軍家光公より御朱印地(領地)十石を献上された。「下総旧事情」によると、御朱印神社は、下総国で64社、葛飾郡内で18社、柏市内では当社と塚崎の神明宮の2社のみである。宝暦七年(1758年)には、伯州刺吏藤原正珍公より、旧領采地、病気平癒の御札として石華表(石鳥居)一基を寄進された。これは当宮の外、布施弁天、塚崎の神明宮の二社一寺に寄進されたものです。
御祭神は、誉田別名(15代応神天皇)・気長足姫命(神功皇后)・玉依姫命で、合祀による御祭神は、仲哀天皇・武内宿称の二柱です。
現在の御本殿は、天保年間(1830年~1843年)造営のものと伝えられ、権現流れ造り、基礎の石垣は安土桃山時代(1573年~1595年)の形式を遺す貴重なものであり、又御本殿周囲の彫刻は、御祭神の事跡を刻んだもので、正面より右側は「養老の滝の図」、左側は「応神天皇を御抱き上げの図」、背面ものは、「里の童山武士を神社に案内の図」で精巧秀麗なものです。
ご祭神/ご本尊
《主》誉田別命・息長足姫命・玉依姫命
《相》仲哀天皇・武内宿称
編集前:《主》誉田別命・息長足姫命・玉依姫命
《相》仲哀天皇・武内宿称
駐車場
無料 あり