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最上三十三観音霊場

観音
専用御朱印
巡礼中64人

御朱印

金額

300円

専用御朱印をいただける場所

1番札所、3番札所、5番札所、6番札所、8番札所、10番札所、11番札所、13番札所、16番札所、17番札所、20番札所、23番札所、25番札所、29番札所、31番札所、33番札所

その他の印

笈摺(おいずり):200円(二印。三印は300円)、朱印帳:300円(揮毫と三印)、掛軸:500円(揮毫と三印)、御影(おすがた):200円(印無し。朱印一印付きは300円)、朱印一印につき:100円、代筆:朱印帳150円、掛軸250円

最上三十三観音霊場の御朱印

概要

最上川の中流にひらける山形・新庄地方は、古くは最上と呼ばれていた。最上の霊場は山形県を貫流する最上川の本支流に沿って、山や野に点在するが、その起源については斯波兼頼より5代目の、最上頼宗の娘光姫の観音信仰伝説がある。
観音像の中にはその造立が9世紀にさかのぼるものもあり、若松観音には古い西国巡礼の納札もあるので、最上の観音信仰はかなり古くから盛んであったことが知られる。
現在の札所観音はおよそ380年前、羽前羽後にわたって統一を果たした最上義発のころに成立したといわれるが、その順番が決まったのは江戸中期ころであろう。
最上は紅花の産地として栄えたところ。紅花は最上川と日本海を船に載せて京大坂に運び、帰りは多くの上方文化をもって帰って来た。元禄2年(1689)「おくの細道」行脚で長く材を留めた芭蕉が、優れた句と文を書きとどめた詩情豊かな郷である。
札所観音は山と川岸と野の中に、ほぼ10か所くらいずつ点在する。
行程約360キロ、昔は徒歩で14~5日を要したが、今は車で3日くらいでかけ巡っている。美しい自然の中に昔のままの素朴な観音堂が静かに巡礼を迎えてくれるが、順路の途中には温泉も多く、かっこうな行楽地にもなっている。
1番若松寺(若松観音)は、「めでためでたの若松さまよ」とうたわれ、古くから縁結びの寺として知られている。本堂は室町末期の建物で内陣にある青銅の懸仏と、郷目真繁の神人曳馬図絵馬はいずれも国の重文である。絵馬も豊富で、本坊には「ムカサリ絵馬」の奉納が今なお続いている。2番千手院(山寺)は、立石寺の東方、千手院集落の入り口の山麓に建っているが、昔はここが立石寺の中心であったのだろう。山寺は春の花、夏の青葉、秋の紅葉が美しく、奥ノ院には香煙の絶えるときがない。長い石段の中ほどに芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句神が立っている。
3番吉祥院千手堂の境内入り口の延命橋も、第1番の番札も最上義光の寄進したもの。本堂は昭和45年(1970) に修覆し、本尊の木造手観音像は国の重文である。千手観音にあやかり、お外の道の上達を祈願して納めた針子総馬を初め、算額、拝顔や「拝み絵馬」が奉納されている。5番護国寺(唐橋観音)のお堂は京都の清水観音と同じ舞台造。昭和51年に再建された。お堂の天井には春光会の画家が描いた花の絵が飾られ、黒下の味望はまさに絶景。
7番右行寺(岩波観音)は、竜山三百坊の元締めの寺だったといわれ、南北朝時代に書写した大般若経114巻が所蔵されている。幽すいな庭園で鳥の声を聞き、池の鯉を見ると俗塵が洗われる思いがする。8番宗福院(六椹観音)がある鉄砲町は、最上義光が堺から鉄砲錣治師を招いて住まわせた所で、六椹とは慈覚大師が巡録のとき、観音堂の六隅に盛った塚に椹の木を植えた故事に由来する。境内にそびえる樹齢300年の高野槇は徳川幕府8代将軍吉宗の献納したもの。
14番正法寺(岡観音)の観音堂はもと高取山にあったといわれるが、素木一本造りの千手観音像は鎌倉時代の作。同じ堂内に安置されている地蔵菩薩立像は室町時代初期の作といわれている。15番が観音寺(落裳観音)。昔小野小町が京からはるばるこの地に来たとき、突然天女が現れ、紫の雲の間から羽衣が落ちてきたが、羽衣の上には十一面観世音のお姿があったという。落裳という地名も観音にあやかって名付けたのである。
18番慈眼院(岩木観音)のなだらかな坂の参道は古木におおわれ、じっとりと苔むしている。本尊の右側にある厨子には、願いを聞いてくれる秤石があり、不確実性の時代を反映し厨子の前に立つ人が多い。
19番秀重院(黒鳥観音)の梵鐘には延宝3年(1675)の銘があり、およその寺の歴史が分かる。天井いっぱいに幻の花嫁を描いた「ムカサリ絵馬」が納められている。
20番清浄院(小松沢観音)では大わらじの掛かった仁王門、静かに立っている後生車の塔婆が印象的。
寺伝では行基普薩が自ら膨刻した阿除陀・薬師・観音像を安置し、最上三所権現と称したのが始まりだという。各種の絵馬もまた珍しい。21番は喜覚寺(五十沢観音)だ。いさざわとは狭い沢のこと。観音坂の急な石段を上ると苔むした古い石灯籠がある。本尊は一寸八分の黄金仏といわれ、観音堂の下の道を通る時は必ず下馬し、布で作った手綱を引いたので、布引観音とも呼ばれている。
25番養泉寺(尾花沢観音)は、元禄2年(1689)に紅花商の鈴木清風を訪ねた芭蕉が、10日間も返留した所で、「涼しさをわが宿にしてねまる也」の旬は、この観音堂に滞在中に作ったもので、境内にある旬陣は涼し塚と呼ばれる。ここは名だたる豪雪地で、「雪を眺むる尾花沢」である。27番清行院(深堀観音)の本尊は数奇な運命の末に京都からここにたどり着いたといわれ、天井裏に安置されている。この本尊をお護りするかのように、正面欄間に笛吹童女の!則がある。正面は前立の観音、両側は西国三十三観音像である。
29番西光寺(大石田観音)のある大石田は最上川の舟運で栄え、芭蕉の「奥の細道』と斎藤茂吉の秀れた歌に詠まれた町である。西光寺境内には「さみだれをあつめてすずしもがみ川」の句碑があり、本堂には航海安全を祈った北国積問屋の北前船や、能・葵上の絵馬など珍しいものが多い。
31番東善院(富沢観音)は新庄藩主の祈願寺で、奥羽三馬頭観世音の一つであり、戸沢公が奉納した絵馬を初め、良馬誕生、厩繁昌を祈願した100余枚の絵馬が掲げられ、あたから絵馬博物館のようである。33番月蔵院(庭月観音)は、最上の札所では最も遠い43キロの道のりだから、多くは瀬見温泉に泊まって汗を流す。鮭川の庭月橋を渡ると庭月観音で、本尊はもと鮭延城主の守護仏であった。お堂の中には三十三の札所を打ち終えて法悦にひたる巡礼たちを描いた絵馬があり、結願の喜びが画面いっぱいにあふれている。

引用:巡拝事典

基本情報基本情報

札所数札所数:34 (札所33: その他:1)
総距離360km
かかる時間車:3日
開創年室町時代
開創者行基菩薩
事務局最上三十三観音札所別当会
連絡先第23番 六沢観音(光沢山 円照寺)〒999-4442 山形県尾花沢市六沢741-3、0237-28-2319

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