一番古いものは舜天王の父とされる源為朝の時代に造られたと伝わる沖宮ではないかと思われる。 『琉球宗教史の研究』によれば、琉球には臨済宗と真言宗の2派の仏教が伝えられ、殊に臨済宗が厚遇されたが、真言宗寺院にも王府から寺禄を給された8公寺が存在した。これら8公寺は神社と併置された(※波上宮は古来からの民間信仰の場である崖端に造営されたのが始まりとされ、安里八幡宮は尚徳王が戦果を記念し造営された等々の伝えがあるため、神社とお寺のどちらが先かは各社により諸説ある)。これらの各社は俗に琉球八社と称された。琉球八社の首座を占めたのは波上宮であった。これは波上宮と同境内にある護国寺が真言宗各寺の本寺であったことによると同書では述べている。さらに同書では、ここで言う官社官寺は、当の神社や寺院そのものが官有であると言うことでは決してなく、神社あるいは寺院といった団体に対して、その維持経営を官が保護し保障したと見るべきであって、官の所有物であるという意志はなかったと解釈するのが穏当であると考察している。
琉球八社の祭神には、安里八幡宮のみ八幡神が祀られ、それ以外は熊野権現が祀られている。『琉球宗教史の研究』では、琉球八社が全て真言宗寺院と併置され、また由緒が古くその創建が王府事業に係わっている臨済宗長寿寺に併置された長寿宮が八社に数えられていないことから見て、琉球八社は真言宗の者による宣伝のため呼称されるようになったのではないかと考察している。しかしまた同書では、何はともあれ琉球八社と言う呼称は、これに含まれる神社が特に由緒の深いものである観を抱かせたのは事実であるとも述べている。
『琉球宗教史の研究』によれば、中世日本本土から勧請された神社・寺院は一般民衆の手によるものでも、一般民衆の済度を目的としたものでもなく、ただ国王およびその一族、ひいては国家の無事安泰を祈願してのものであったため、社寺は貴族階級の信仰対象であるに止どまり、一般民衆はほとんどそれらと結合されていなかったのだと言う。このため、神社寺院には氏子や檀家がなく、地元の民衆と信仰的に直接結合しているものは各村落にある御嶽拝所であったと同書では述べている。
ただし波上宮は民衆に「なんみんさん」と呼ばれるなどして親しまれ、普天満宮と共に古くから信仰されていたという言い伝えが地元民の間では残っている。 元々この二社は民間信仰の聖地に造営されたため、民間に馴染んでいても不自然ではないという見方もされる。