へびくぼじんじゃ
御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方
蛇窪神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年04月01日(月)
参拝:2024年3月吉日
白蛇様に会える日になかなか休みが合わず💦
諦めてお参りに行って来ました🙏🏻
【蛇窪神社】
文永8年(鎌倉時代•1272年)11月10日、北条四朗左近大夫陸奥守重時は、五男の時千代に多数の家臣を与え蛇窪(現在の品川区二葉四丁目付近)に残って当地域を開くよう諭して、自らはこの地を去りました。
その後、時千代は、法圓上人(ほうえんしょうにん)と称して大森に厳正寺(ごんしょうじ)を開山し、家臣の多くは蛇窪付近に居住させました。現在、厳正寺の壇徒がこの地域に多いのは、こうした理由によるものです。
文永8年の秋から50年ほどを経た元亨2年(1322年)、武蔵の国(現在の東京・埼玉)一帯が大旱魃となり、飢饉の到来は必至と見られました。このとき、厳正寺の当主、法圓の甥の第二世法密上人は、この危機を救うため、厳正寺の戌亥(北西)の方向にあたる森林の古池のほとりにある龍神社に雨乞いの断食祈願をしました。上人の赤誠(偽りや飾りのない心。まごころ。)と神霊の冥助により、大雨が沛然と降り注ぎ、ついに大危機を免れることができました。
これに感激した時千代の旧家臣たちは、蛇窪に神社を勧請し、神恩に応えて祀りました。これが現在の蛇窪神社の縁起とされています。(荏原区史)
なお 一説には、鎌倉時代に、この地の豪農、森屋氏(現姓森谷氏等の先祖)が建立したものとも伝えられています。
当社の旧社名は神明社でしたが、その後村社に昇格して「天祖神社」に改名されました。
令和元年5月1日より、御大典を記念し、また、地域の発展を祈念して、神社名の問い合わせの多い別称「蛇窪神社」を通称表記に格上げすることになりました。
ー蛇窪神社HPよりー
諦めてお参りに行って来ました🙏🏻
【蛇窪神社】
文永8年(鎌倉時代•1272年)11月10日、北条四朗左近大夫陸奥守重時は、五男の時千代に多数の家臣を与え蛇窪(現在の品川区二葉四丁目付近)に残って当地域を開くよう諭して、自らはこの地を去りました。
その後、時千代は、法圓上人(ほうえんしょうにん)と称して大森に厳正寺(ごんしょうじ)を開山し、家臣の多くは蛇窪付近に居住させました。現在、厳正寺の壇徒がこの地域に多いのは、こうした理由によるものです。
文永8年の秋から50年ほどを経た元亨2年(1322年)、武蔵の国(現在の東京・埼玉)一帯が大旱魃となり、飢饉の到来は必至と見られました。このとき、厳正寺の当主、法圓の甥の第二世法密上人は、この危機を救うため、厳正寺の戌亥(北西)の方向にあたる森林の古池のほとりにある龍神社に雨乞いの断食祈願をしました。上人の赤誠(偽りや飾りのない心。まごころ。)と神霊の冥助により、大雨が沛然と降り注ぎ、ついに大危機を免れることができました。
これに感激した時千代の旧家臣たちは、蛇窪に神社を勧請し、神恩に応えて祀りました。これが現在の蛇窪神社の縁起とされています。(荏原区史)
なお 一説には、鎌倉時代に、この地の豪農、森屋氏(現姓森谷氏等の先祖)が建立したものとも伝えられています。
当社の旧社名は神明社でしたが、その後村社に昇格して「天祖神社」に改名されました。
令和元年5月1日より、御大典を記念し、また、地域の発展を祈念して、神社名の問い合わせの多い別称「蛇窪神社」を通称表記に格上げすることになりました。
ー蛇窪神社HPよりー
☆社号標•御大典記念の碑☆
紀元2600年(昭和15年)奉祝と、当社が村社に昇格したのを記念して建てられたものです。
明治45年(西暦1912)年7月30日。大正天皇が即位(天皇の位につく)されたのを記念して建てられた碑です。裏の碑文は明治24年品川用水(かんがい)水利権に関し訴訟問題が起こり用水利用者金子仲次郎氏外20名が荏原郡長に訴願したが認められず、更に明治28年東京府知事に上告し認められる迄の過程を記録したものです。
誠なる心を以ちてむかへなば
光輝く後の世までも
紀元2600年(昭和15年)奉祝と、当社が村社に昇格したのを記念して建てられたものです。
明治45年(西暦1912)年7月30日。大正天皇が即位(天皇の位につく)されたのを記念して建てられた碑です。裏の碑文は明治24年品川用水(かんがい)水利権に関し訴訟問題が起こり用水利用者金子仲次郎氏外20名が荏原郡長に訴願したが認められず、更に明治28年東京府知事に上告し認められる迄の過程を記録したものです。
誠なる心を以ちてむかへなば
光輝く後の世までも
☆新檜の大鳥居⛩️☆
蛇窪神社鎮座七百年記念事業の一環として、地域発展のシンボルとなる大鳥居が、令和元年12月26日、氏子崇敬者の御浄財により建立されました。
蛇窪神社鎮座七百年記念事業の一環として、地域発展のシンボルとなる大鳥居が、令和元年12月26日、氏子崇敬者の御浄財により建立されました。
☆狛犬様☆
☆社務所☆
☆手水舎☆
☆御拝殿☆
【御祭神】
天照大御神
【御配神】
天児屋根命•応神天皇
当神社の旧社名は、神明社です。天照大御神•天児屋根命(あめのこやねのみこと)•応神天皇の御三柱をお祀りする以前は、蛇窪龍神社でした。創建の史実にある雨乞い祈願を白蛇が住んでいた(現在の消防団詰所)龍神社で行う際に、お稲荷さんもお祀り致しました。この祈願を基に構成されて建立された神社であり、御本殿に祀られる御三柱の他、法密稲荷社、白蛇辨財天社、蛇窪龍神社に祀られる全ての神さまを総称して、“蛇窪大明神”と奉称致します。
【御祭神】
天照大御神
【御配神】
天児屋根命•応神天皇
当神社の旧社名は、神明社です。天照大御神•天児屋根命(あめのこやねのみこと)•応神天皇の御三柱をお祀りする以前は、蛇窪龍神社でした。創建の史実にある雨乞い祈願を白蛇が住んでいた(現在の消防団詰所)龍神社で行う際に、お稲荷さんもお祀り致しました。この祈願を基に構成されて建立された神社であり、御本殿に祀られる御三柱の他、法密稲荷社、白蛇辨財天社、蛇窪龍神社に祀られる全ての神さまを総称して、“蛇窪大明神”と奉称致します。
通年御朱印 『蛇窪大明神』『蛇窪神社』
御鎮座七百年記念浄書(墨書) 御朱印
☆なで白蛇☆
☆蛇窪龍神社の鳥居⛩️☆
令和3年4月1日、御鎮座七百年を記念し、元宮として「蛇窪龍神社」を建立いたしました。
蛇窪龍神社は、蛇窪神社創建前の神社で、千年以上の歴史があると伝えられ、蛇窪の守護神と称えられております。七夕は、蛇窪龍神社の水まつりの日です。鎌倉時代に龍神様が、旱魃で苦しむこの地に雨を降らせ、大飢饉を救ったことで、龍神様と水恩に感謝する日としています。
7匹の白蛇や全長8mの白龍は、昭和50年2月5日、真鍋勝氏の手作りにより奉納されたもので、神様の使いである白蛇が八匹目で白龍になるという言い伝えを表しています。
【御祭神】
蛇窪龍神
蛇窪龍神社は、蛇窪神社創建前の神社で、千年以上の歴史があると伝えられ、蛇窪の守護神と称えられております。七夕は、蛇窪龍神社の水まつりの日です。鎌倉時代に龍神様が、旱魃で苦しむこの地に雨を降らせ、大飢饉を救ったことで、龍神様と水恩に感謝する日としています。
7匹の白蛇や全長8mの白龍は、昭和50年2月5日、真鍋勝氏の手作りにより奉納されたもので、神様の使いである白蛇が八匹目で白龍になるという言い伝えを表しています。
【御祭神】
蛇窪龍神
☆白蛇弁財天の鳥居⛩️☆
☆白蛇清水•銭洗いの所☆
【御祭神】
市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)
田心姫神(たごりひめのかみ)
湍津姫神(たぎつひめのかみ)
【石窟】白蛇大神
市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)
田心姫神(たごりひめのかみ)
湍津姫神(たぎつひめのかみ)
【石窟】白蛇大神
通年御朱印 『白蛇辨財天』
【夢巳橋•白龍の滝•龍神の玉】
鎌倉時代、天祖神社の社殿の左横(現在の消防団詰所付近)に清水が湧き出る洗い場があり、そこに白蛇が住んでいました。
時移り、いつのまにか洗い場がなくなり、やむなく白蛇は現在の戸越公園の池に移り住むようになりました。
あるとき、土地の旧家森谷友吉氏の夢枕に白蛇が現れ「一日も早くもとの住みかに帰してほしい」と懇願しました。
森谷氏はこの話を宮司に伝えて、白蛇をもとに戻すよう願い出ました。宮司は辨財天社【琵琶を奏でる姿から音楽や芸能の才能を伸ばし、弁知(知恵)の神、安芸の宮島厳島神社の御分霊である辨財天を祀る】を建立することに決め、現在の駐車場に池を掘り、池の中央に小島を設け、その中の石窟に石祠を造って白蛇を祠ることにしました。古老の話によれば白蛇を迎える日の夜、いよいよお迎えの祝詞を奉上しようとしたとき、それまでの輝くばかりの星空が一天にわかにかき曇り、雷鳴とともに大風が立ち起こり、そのさまは身のすくむ思いだったということです。
戦後昭和29年に櫻井昌利氏(鳶頭)をはじめ有志の方々の御浄財により、お社は現在地に移され、上屋や辨天池なども造営されました。
令和3年4月1日、御鎮座七百年を記念し、氏子崇敬者の御浄財によって、石窟•社殿•辨天池•白龍の滝が立て替えられ、銭洗を新たに造りました。
鎌倉時代、天祖神社の社殿の左横(現在の消防団詰所付近)に清水が湧き出る洗い場があり、そこに白蛇が住んでいました。
時移り、いつのまにか洗い場がなくなり、やむなく白蛇は現在の戸越公園の池に移り住むようになりました。
あるとき、土地の旧家森谷友吉氏の夢枕に白蛇が現れ「一日も早くもとの住みかに帰してほしい」と懇願しました。
森谷氏はこの話を宮司に伝えて、白蛇をもとに戻すよう願い出ました。宮司は辨財天社【琵琶を奏でる姿から音楽や芸能の才能を伸ばし、弁知(知恵)の神、安芸の宮島厳島神社の御分霊である辨財天を祀る】を建立することに決め、現在の駐車場に池を掘り、池の中央に小島を設け、その中の石窟に石祠を造って白蛇を祠ることにしました。古老の話によれば白蛇を迎える日の夜、いよいよお迎えの祝詞を奉上しようとしたとき、それまでの輝くばかりの星空が一天にわかにかき曇り、雷鳴とともに大風が立ち起こり、そのさまは身のすくむ思いだったということです。
戦後昭和29年に櫻井昌利氏(鳶頭)をはじめ有志の方々の御浄財により、お社は現在地に移され、上屋や辨天池なども造営されました。
令和3年4月1日、御鎮座七百年を記念し、氏子崇敬者の御浄財によって、石窟•社殿•辨天池•白龍の滝が立て替えられ、銭洗を新たに造りました。
☆蛇松☆
☆法密稲荷社の鳥居⛩️☆
☆お狐様🦊☆
☆満願岩☆
【土搗石】
この土搗石は、江戸時代より武蔵国荏原郡上蛇窪村に伝わる石です。住居•納屋などの普請がある度に村人が交替で手伝い歌を歌いながら敷地を固めた石 で(別名オカメサン)大正7年頃まで使用したものです。 平澤忠義氏より譲り受け社宝として後世に伝える ものです。
この土搗石は、江戸時代より武蔵国荏原郡上蛇窪村に伝わる石です。住居•納屋などの普請がある度に村人が交替で手伝い歌を歌いながら敷地を固めた石 で(別名オカメサン)大正7年頃まで使用したものです。 平澤忠義氏より譲り受け社宝として後世に伝える ものです。
☆お狐様🦊☆
☆おもかる狐石☆
石を持ち上げて軽いと感じれば、願いが早くかない、重いと感じれば一層努力が必要。
石を持ち上げて軽いと感じれば、願いが早くかない、重いと感じれば一層努力が必要。
☆法密稲荷社☆
元亨2年(1322年)に武蔵の国が深刻な大飢饉が訪れた際、厳正寺第二世法密上人は、雨乞いの断食祈願をしました。そして豊作を祈るため、京都伏見稲荷大社の御分霊をお祀りされたと伝わります。江戸後期の新編武蔵風土記稿に末社稲荷社の名が記されております
昭和47年に、神殿•上屋•燈籠などを、櫻井昌利氏をはじめ氏子篤志家の寄進により建て替えられました。
御鎮座七百年を記念し、雨乞いが行われてから七百年目の令和4年11月1日、氏子崇敬者の御浄財によって、建て替えられました。そして稲荷社の由緒を後世に伝えるため、「法密稲荷社」に改名いたすことになりました。
元亨2年(1322年)に武蔵の国が深刻な大飢饉が訪れた際、厳正寺第二世法密上人は、雨乞いの断食祈願をしました。そして豊作を祈るため、京都伏見稲荷大社の御分霊をお祀りされたと伝わります。江戸後期の新編武蔵風土記稿に末社稲荷社の名が記されております
昭和47年に、神殿•上屋•燈籠などを、櫻井昌利氏をはじめ氏子篤志家の寄進により建て替えられました。
御鎮座七百年を記念し、雨乞いが行われてから七百年目の令和4年11月1日、氏子崇敬者の御浄財によって、建て替えられました。そして稲荷社の由緒を後世に伝えるため、「法密稲荷社」に改名いたすことになりました。
【御祭神】
稲荷大神
稲荷大神
☆扁額☆
☆水掛宝珠☆
☆お狐様🦊☆
蛇窪神社リーフレット
スタンプが置いてあったので押してきました😊
左は挟み紙
左は挟み紙
蛇窪神社マップ
開運八社めぐりのリーフレット
すてき
投稿者のプロフィール
malice 542投稿
ホトカミ見ました! で広がるご縁
ホトカミを見てお参りされた際は、もし話す機会があれば神主さんに、「ホトカミ見てお参りしました!」とお伝えください。
神主さんも、ホトカミを通じてお参りされる方がいるんだなぁと、ホトカミ無料公式登録して、情報を発信しようという気持ちになるかもしれませんし、
「ホトカミ見ました!」きっかけで豊かな会話が生まれたら、ホトカミ運営の私たちも嬉しいです。