みょうちょうじ|天台宗|恵光山
名超寺の御由緒・歴史
創建時代 | 藤原時代初期 | |
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開山・開基 | 名超童子 | |
ご由緒 | 名超寺は恵光山常喜院と号し、天台宗に属する。伊吹山寺の開祖三修沙門の高弟名越童子が藤原時代の初期、静寂なるこの浄地として開基した処である。爾来七堂伽藍、四十九院、九十九坊の寺観を整え、天台密教の道場として栄え壮観であった。しばしば兵火にあったが、その都度再建され、よく名刹の名を堅持した。しかし今は往年の四十九院等は廃領して、平等院、観成院の二院を在するのみであるが、その伝在する仏像、仏画、什器、古文書等、また積善坊、仁王堂、釈迦堂等の地名によって巨刹たりし往昔をよく推想することができる。建久年間、後鳥羽上皇の知遇を受けし比叡山の高僧禪行阿闍梨が当寺にじゅうするや建久十年乗降密かにここに行幸あり。禪行迎えて名超寺本坊圓光院を行わせられた。今は当寺の付近に御祓谷、御尊像を崇拝して後鳥羽殿と称す。元亀の兵乱、当寺にも及ぼし時、全山灰燼に帰したが、羽柴秀吉長浜城に封じせれるや後鳥羽殿を再建し、上皇の御忌を修したという記録がある。古図によると現在本堂は観音堂と言われたもので、当所より奥五百米の権現谷の地に本堂碑がある。名超寺の御本尊は聖観音菩薩立像で、木彫一木造、檜材素地のままで、高さ等身(六尺)の堂々たる巨像で平安時代後期初頭(藤原時代)の特長を存した地方的な作風の宛われる尊像である。寺伝では伝教大師、最澄上人、一投三礼の作とされているが定かではない。宝物には銅製の磐(ケイ)(鎌倉時代)、梵天像(鎌倉時代)、十六菩神像(室町時代)、後鳥羽上皇の御倫書、足利尊氏等の古文書が多数、来迎仏図(鎌倉時代)等がある。 |
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