にいやまじんじゃ
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仁比山神社ではいただけません
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仁比山神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年08月12日(月)
参拝:2024年8月吉日
佐賀県神埼市にある、仁比山神社⛩️に参拝しました。
地元の人に「山王さんのうさん」と呼ばれ親しまれている仁比山神社にいやまじんじゃは、天平てんぴょう元年(729)僧の行基ぎょうきが、聖武天皇しょうむてんのうの勅願ちょくがんを賜たまわり、神殿しんでんを建立こんりゅうして松尾明神まつおみょうじんを勧請かんじょうし、国家安泰こっかあんたい、五穀豊穣ごこくほうじょうを御祈願ごきがんされたのが創始そうしです。
承和11年(844)慈覚大師じかくたいしが唐とうより帰朝きちょうの際、国家安泰こっかあんたいの祈願きがんの為ために御神水ごしんすいを得る時、土中どちゅうより「日吉宮ひよしぐう」の石額せきがくを発見したことを朝廷ちょうていに奏上そうじょうします。比叡山ひえいざんの神威しんいを感じた時の仁明天皇にんみょうてんのうは勅命ちょくめいを以て、比叡山ひえいざんの日吉山王宮ひよしさんのうぐう(日吉大社ひよしたいしゃ)の分霊ぶんれいを合祀ごうしし、朝廷ちょうていの祈願所きがんしょと定めました。その時、仁明天皇にんみょうてんのうの「仁にん」と比叡山ひえいざんの「比山ひやま」を併あわせて「仁比山にひやま」と名付けられました。一般に「仁比山」は、「にいやま」と読まれていますが、本来は、この「にひやま」が正式で、地元では「にーやま」と称されています。
爾来じらい、歴代皇室こうしつの御尊崇ごそんすうも一層篤あつく、御祈願ごきがんの御綸旨ごりんじ・院宣いんぜんなど縷々るる下賜かしせられました。武家の時代になってからも、崇敬すうけいを集め、国家安泰こっかあんたい・武運長久ぶうんちょうきゅうの祈願きがんのため、国司こくし・探題たんだい等から社領しゃりょう、神田じんでの寄付も度々たびたびありました。戦乱のため社殿しゃでんを焼失する事もあり、中でも大友氏おおともしの兵が当国に乱入の折、社殿しゃでんと共に由緒ゆいしょなどに関する古文書こもんじょが兵火へいかに罹かかりその多くは焼失しました。幸いに数十通の古文書こもんじょ類は残されたことで、その由緒ゆいしょを窺うかがい知ることができています。
江戸時代になり、佐嘉藩祖さがはんその鍋島直茂なべしまなおしげ、初代藩主はんしゅの鍋島勝茂なべしまかつしげにより再建されました。歴代藩主はんしゅ・鍋島家なべしまけの崇敬すうけい神社として、毎年正月・5月・9月には、必ず藩主はんしゅ代拝だいはいの典儀てんぎがありました。大小祭典さいてん、並びに社殿しゃでん営繕えいぜんに要する一切の費用は、総て藩費はんぴの負担に属し、社地しゃちは3町歩、山林15町余、社禄しゃろく物成ものなり38石、禀米りんまい30石が寄進きしんされました。
明治3年(1870)には藩主はんしゅ鍋島直大なべしまなおひろの祖先そせん累代るいだいの崇敬すうけい神社であった修理田村しゅりたむら(現・佐賀市さがし巨勢町こせまち修理田しゅりた)の山王宮さんのうぐう(日吉宮ひよしぐう)を合祀ごうししたのを始めに、国史見在社こくしけんざいしゃの白角折神社おしとりじんじゃ(現在は旧地きゅうちに復座ふくざ)、及びその他無各社むかくしゃも合祀ごうし。社格しゃかく制定では、当初は村社そんしゃでしたが、大正5年(1916)6月26日に県社けんしゃに昇格しょうかくしました。
古くは農の神、酒の神様と敬うやまわれ、中世には医学の神様としても敬うやまわれました。古来、霊験れいげん著いちじるしく、霊妙不可思議れいみょうふかしぎなる御神徳ごしんとくを垂たれ給たもうこと屡々しばしばであることから、佐賀・福岡の両県下に跨またがり崇敬すうけいされています。
境内けいだいには、樹齢800年や600年の楠くすの大木、モミジの古木を始め様々な針葉、広葉常緑樹、落葉樹が蒼然そうぜんと繁り、四季の風光ふうこうに富んでいます。参道さんどう中にある九年庵くねんあんと共に新緑・紅葉の名所として広く知られ、見頃の期間は多くの参拝さんぱい者で賑わいます。
地元の人に「山王さんのうさん」と呼ばれ親しまれている仁比山神社にいやまじんじゃは、天平てんぴょう元年(729)僧の行基ぎょうきが、聖武天皇しょうむてんのうの勅願ちょくがんを賜たまわり、神殿しんでんを建立こんりゅうして松尾明神まつおみょうじんを勧請かんじょうし、国家安泰こっかあんたい、五穀豊穣ごこくほうじょうを御祈願ごきがんされたのが創始そうしです。
承和11年(844)慈覚大師じかくたいしが唐とうより帰朝きちょうの際、国家安泰こっかあんたいの祈願きがんの為ために御神水ごしんすいを得る時、土中どちゅうより「日吉宮ひよしぐう」の石額せきがくを発見したことを朝廷ちょうていに奏上そうじょうします。比叡山ひえいざんの神威しんいを感じた時の仁明天皇にんみょうてんのうは勅命ちょくめいを以て、比叡山ひえいざんの日吉山王宮ひよしさんのうぐう(日吉大社ひよしたいしゃ)の分霊ぶんれいを合祀ごうしし、朝廷ちょうていの祈願所きがんしょと定めました。その時、仁明天皇にんみょうてんのうの「仁にん」と比叡山ひえいざんの「比山ひやま」を併あわせて「仁比山にひやま」と名付けられました。一般に「仁比山」は、「にいやま」と読まれていますが、本来は、この「にひやま」が正式で、地元では「にーやま」と称されています。
爾来じらい、歴代皇室こうしつの御尊崇ごそんすうも一層篤あつく、御祈願ごきがんの御綸旨ごりんじ・院宣いんぜんなど縷々るる下賜かしせられました。武家の時代になってからも、崇敬すうけいを集め、国家安泰こっかあんたい・武運長久ぶうんちょうきゅうの祈願きがんのため、国司こくし・探題たんだい等から社領しゃりょう、神田じんでの寄付も度々たびたびありました。戦乱のため社殿しゃでんを焼失する事もあり、中でも大友氏おおともしの兵が当国に乱入の折、社殿しゃでんと共に由緒ゆいしょなどに関する古文書こもんじょが兵火へいかに罹かかりその多くは焼失しました。幸いに数十通の古文書こもんじょ類は残されたことで、その由緒ゆいしょを窺うかがい知ることができています。
江戸時代になり、佐嘉藩祖さがはんその鍋島直茂なべしまなおしげ、初代藩主はんしゅの鍋島勝茂なべしまかつしげにより再建されました。歴代藩主はんしゅ・鍋島家なべしまけの崇敬すうけい神社として、毎年正月・5月・9月には、必ず藩主はんしゅ代拝だいはいの典儀てんぎがありました。大小祭典さいてん、並びに社殿しゃでん営繕えいぜんに要する一切の費用は、総て藩費はんぴの負担に属し、社地しゃちは3町歩、山林15町余、社禄しゃろく物成ものなり38石、禀米りんまい30石が寄進きしんされました。
明治3年(1870)には藩主はんしゅ鍋島直大なべしまなおひろの祖先そせん累代るいだいの崇敬すうけい神社であった修理田村しゅりたむら(現・佐賀市さがし巨勢町こせまち修理田しゅりた)の山王宮さんのうぐう(日吉宮ひよしぐう)を合祀ごうししたのを始めに、国史見在社こくしけんざいしゃの白角折神社おしとりじんじゃ(現在は旧地きゅうちに復座ふくざ)、及びその他無各社むかくしゃも合祀ごうし。社格しゃかく制定では、当初は村社そんしゃでしたが、大正5年(1916)6月26日に県社けんしゃに昇格しょうかくしました。
古くは農の神、酒の神様と敬うやまわれ、中世には医学の神様としても敬うやまわれました。古来、霊験れいげん著いちじるしく、霊妙不可思議れいみょうふかしぎなる御神徳ごしんとくを垂たれ給たもうこと屡々しばしばであることから、佐賀・福岡の両県下に跨またがり崇敬すうけいされています。
境内けいだいには、樹齢800年や600年の楠くすの大木、モミジの古木を始め様々な針葉、広葉常緑樹、落葉樹が蒼然そうぜんと繁り、四季の風光ふうこうに富んでいます。参道さんどう中にある九年庵くねんあんと共に新緑・紅葉の名所として広く知られ、見頃の期間は多くの参拝さんぱい者で賑わいます。
すてき
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マツケンサンバ216投稿
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