ほうぞうじ|真言宗豊山派|不退山
宝蔵寺の編集履歴
名前
宝蔵寺
編集前:金剛院宝蔵寺
ご由緒
『当寺の来歴は非常に古く、創立は天平八年(736)の頃といわれる。開創以降法相宗であったが、その後真言宗に改宗されたもので、改宗後現在まで八十四世となっている。
江戸時代の終りころまでは、高野山派越後法檀林中の本寺で、十三ヵ寺の末寺を擁していた。また、中興の学匠長海師をはじめとし、沢山の学僧を輩出している。近年では真言宗豊山派総本山長谷寺の能化管長になった故正城全鏡大僧正は当地油田出身で、当寺の従弟であった。
本尊阿弥陀如来像は行基作で、越後六阿弥陀如来の第四番となっている。また越後三十三札所第五番の観世音が安置されてある。
上杉謙信が川中島合戦に出陣の際、この弥陀と観音二尊に戦勝祈願し、遂いに勝つことができたので、お礼の気持から寺領八十石を寄進した。上杉景勝が米沢へ国替の時にこの二尊を舟に乗せたが、この舟が動かなくなり、やむなく元の位置に戻し安置したとの言い伝えがある。』
「新潟県寺院名鑑」より!
現在の伊佐智海師は第八十五世
編集前:『当寺の来歴は非常に古く、創立は天平八年(736)の頃といわれる。開創以降法相宗であったが、その後真言宗に改宗されたもので、改宗後現在まで八十四世となっている。
江戸時代の終りころまでは、高野山派越後法檀林中の本寺で、十三ヵ寺の末寺を擁していた。また、中興の学匠長海師をはじめとし、沢山の学僧を輩出している。近年では真言宗豊山派総本山長谷寺の能化管長になった故正城全鏡大僧正は当地油田出身で、当寺の従弟であった。
本尊阿弥陀如来像は行基作で、越後六阿弥陀如来の第四番となっている。また越後三十三札所第五番の観世音が安置されてある。
上杉謙信が川中島合戦に出陣の際、この弥陀と観音二尊に戦勝祈願し、遂いに勝つことができたので、お礼の気持から寺領八十石を寄進した。上杉景勝が米沢へ国替の時にこの二尊を舟に乗せたが、この舟が動かなくなり、やむなく元の位置に戻し安置したとの言い伝えがある。』
「新潟県寺院名鑑」より!
現在の伊佐智海師は第八十五世
ご祭神/ご本尊
御本尊 阿弥陀如来
越後新四国八十八ヶ所霊場 越後三十三観音霊場
十一面観音菩薩
編集前:阿弥陀如来
駐車場
あり
御朱印
あり
山号
不退山
院号
金剛院
巡礼
越後新四国八十八ヶ所霊場 十六番札所
越後三十三観音霊場 五番札所